鑑賞をする、ということ2011/09/26 23:15

 どの分野でも何かを鑑賞していて最初に出る言葉の中に「いいね」とか「面白いね」というのがあります。何も感じない場合には「???」でとくに言葉はありません。少なくても僕の場合はそんな具合です。次の段階で「いいね」や「面白いね」をもっと具体的な言葉で説明をしようと思うと、言葉に詰まってしまい、表現力のなさを痛感します。しかし、と思うのです。僕は評論家ではありませんし解説者でもありませんから、僕自身が何かしらの感動を受けて気持ちが豊かになったり、勇気づけられたりすることで十分ではないかと。
 つまり、受動的にいろいろな分野の芸術の素晴らしさを享受する側においてはそれぞれの好みで「この作品が好きです」とか「あまり面白くないね」とつぶやいていればいいのだと思います。僕についてだけのことですが、ある意味大変無責任な接し方です。

 立場が変わって、制作者の側というか発信する側から考えると事柄はもう少し複雑なように思います。
 僕が多少分かるというか、この年齢になって経験をしていることは写真の分野のことです。

 写真という表現手段にはそれなりの特徴があります。そしてそれらは科学技術の進歩と共に変化をしています。昔は腕の見せ所であった「ピントが合っている」や「手ブレをしていない」、「露出が適正だ」などというのは、今のカメラでは全てカメラがやってくれることで、ほぼカメラにませでいいと思います。加えて、デジタルカメラはその場でとった写真の出来不出来を確認できますから、気に入ったのが撮れるまで試みることができます。
 そんな環境になって僕は「ただシャッターを押しただけ」「きれいに撮れているだけ」という写真を量産している気がして不安なのです。

 写真はパリのリヨン駅 2006年12月
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