僕の45年間ー382010/07/31 00:42

 手書きの簡単な地図には×印が付いていました。僕は何度も税関を出てからのその位置を確認しました。ここで間違いない、と確信を持って×印の建物のところにしばらく立っていました。あまり人通りはありませんでしたがリュックサックを背負ってじっと一箇所に立っている東洋人は目立つな、と少し気になりました。間もなくヴェトナム人船員氏は現れて、カメラを渡して一件落着となるだろうと時計を何度も見ていました。10分、15分と経っても現れません。

 僕はだんだんパリ行きの電車のことが気になり始めました。村上さんと駅で落ち合うことになっていましたが互いにその場所すら確かではありませんでした。船を下りる前にマルセイユの駅の様子を知っている人にどこで落ち合うのが良いかを聞き、ぼんやりと分かっている程度でした。村上さんと落ち合えなかったら僕は一人で電車に乗ってパリまで行くことになります。村上さんも僕も言葉には不自由ですが一人旅よりは少し安心かなと思っていました。

 ヴェトナム人船員氏と会う約束の時間は20分ほど過ぎていました。僕は手に持っていた茶色の紙袋を自分のカメラバッグに仕舞いました。そして、深呼吸をしました。「無理だ、これ以上は待てない。悪いけれどあきらめよう」と心の中でつぶやいて駅の方角に歩き始めました。
 歩きながら、僕は税関を通過したときのあの緊張を思い出しながら「こりゃ、一体何だったんだろう」と自分に少し腹立たしさを覚えました。

 しかし、じきにそのことを忘れました。何しろ、自動車の往来が激しい道路を横切るときに、目が強い反応をしているのが分かりました。頭では日本の逆であるとは分かっていても目の感覚が付いてゆけませんでした。自動車が走っている方向に目がびっくりしている風でした。船が寄港したどこの国でも同じことを経験しましたが、ヨーロッパ大陸に上陸をしたとたんに、この異文化体験は目と頭がばらばらになるような奇妙な感じでした。

 僕が知っている鉄道の駅で一番大きいのは上野駅でした。年にいっぺん位は実家の青森へ帰省していましたから上野駅は馴染みでした。鉄道の駅はどこも同じようなものだろうと思ってマルセイユの駅舎に入ってゆくと、上野駅とは違っていました。

 写真はカンボジア・プノンペン近郊の小学校の先生。教師の給料では生活ができないと嘆いていました。

千葉景子法相 死刑を執行したと発表する2010/07/29 22:28

 千葉景子法相は28日午後、死刑を執行したと発表しました。
僕は激しい憤りと忿まんを覚えています。神が創造された人を、同じ人が合法の名の下に死刑という「犯罪」を執行することは、キリスト者として神への許しがたい冒涜であると考えます。僕は死刑制度に断固反対です。
 下記のサイトでは小説家・放送作家である南川泰三氏が激しく怒っています。僕は氏の論調に全面的に賛同します。是非、ご一読ください。
http://taizonikki.exblog.jp/13014578/

僕の45年間ー372010/07/29 14:18

 僕にとっては初めての税関通過です。何をどうされるのか皆目見当がついていませんでした。僕は行列が進み、税関の係官がだんだん近くなって、行列の先頭が見え始めたときから、係官は何をどうしているのかを注意深く観察し、気持ちの準備を始めました。何の検査もされずに通過する人、スーツケースの中を全部調べられている人など様々であることが分かり始めました。見た感じではやはり、大きな荷物の人ほど調べられることが多いような気がし、僕はリュックサックとカメラバッグだけだから大丈夫ではないかなという気がしました。
 前の人が無事通過し、いよいよ、僕の番です。緊張で足がガタガタ震えていたのを覚えています。ドキドキしながら大きな木製の机の前に進みました。係官は無表情でした。僕はカメラバッグを肩から下ろし、リュックサックを下ろして、と手順を考えていました。しかし、係官にいきなり、Go,Goと手を振られて終わってしまいました。な~んだ、これだけ、とは思ったものの冷や汗がどっと出てきました。
 後ろを振り返ると村上さんの大きなスーツケースが開けられていました。村上さんは大量の油絵具やスケッチブック、画集を持ち歩いていました。誰が見ても画家の持ち物という風でした。村上さんは直立不動の姿勢で終わるのをじっと待っていました。すでに無事に通過した僕の目には長い時間ではありませんでしたが、村上さんにとっては長く感じられたのではないかと思いました。

 僕にはまだ大事な仕事が残っていました。パリ行きの電車に乗る前に、例のヴェトナム人船員から預かった、税関を無事通過したカメラを渡さなければなりませんでした。僕はポケットから地図を出し、落ち合う場所の方向を見当つけようとしましたが容易ではありませんでした。

 ヴェトナム人船員が渡してくれた地図らしき紙切れは大変大雑把でした。大きな通りに出てすぐの建物と建物の間の路地のようなところで落ち合うことになっていました。

オランダのNGOの支援で義足や義手を無償で提供していました。 カンボジア・プノンペン

僕の45年間ー362010/07/27 20:53

 カンボジア号はいよいよ最終港のマルセイユの岸壁に横付けになりました。1966年12月に横浜を出航して以来、ようやく船の最後の目的地に着きました。船内は、それはそれはにぎやかで興奮が渦を巻いていました。ヴェトナム系の人々はここフランスで新しい生活が始まることに胸を膨らませ、インド系の人々はもう少しの旅でイギリスに着くことに安堵している風でした。そんな、大きな荷物を持った船客が狭い階段を上ったり下りたり、忘れ物がないかとキャビンに戻る人などが右往左往していました。どこの通路も身動きができないくらいの様相を呈していました。
 すでに甲板に上がった人々はタラップが下ろされるのを今か今かと待ちながら、埠頭に来ている人々の中に自分の家族や友人がいないか両手を振って探していました。
 
 これまで幾つもの港に寄ってきましたがどこも土ぼこりが舞っているような雰囲気の港でした。しかし、マルセイユ港は甲板から眺めただけでも施設がしっかり整備されていて清潔な感じがしました。荷役をする労働者は制服らしい作業着を着、埠頭で忙しそうに動き回っているトラックも塗装が剥げたり錆付いたりはしていず、はからずも僕は安心感を覚えてしまいました。
 
 僕ら三等船客はタラップを降りて、岸壁からさほど遠くないところにある大きな倉庫のような、飛行機の格納庫のような建物に連れて行かれました。一等船客が優先的に下船していたらしく、すでに幾つもの長い行列が作られていました。僕らは船の最下層のキャビンの客ですから行列に並ぶのも最後でした。

 僕と大きなスーツケースを2つ持った村上さんは何となく目配せをしながら離ればなれにならないように気をつけながら少しずつ前へ進みました。やがて税関の前に来ました。僕はどぎまぎしている自分を悟られないようにしようとポーカーフェースを装って、肩に掛けていた黒のカメラバッグの握り手をぎゅっと握りました。

 オランダのNGOの支援で義足を作る人 カンボジア・プノンペン

ポルポト政権元幹部に判決2010/07/26 22:23

 ポルポト政権の元幹部に判決が出ました。

村上肥出夫画伯2010/07/26 00:10

 先日、村上肥出夫氏に著作があることを知り、早速購入しました。僕と同じカンボジア号で横浜を出航したのが1966年12月でしたから、およそ10年後に2度目のパリ滞在をなさったようです。

「パリの舗道で」 村上肥出夫/著 弥生書房 発売日1976年01月01日

『お母さん。またパリに来ています。少年時代からの夢だったパリにはじめて来たのは、もう十年も前のこと。僕はいま、シャンゼリゼの大通りに沿った小公園のベンチに腰を下ろして、懐かしくあなたのことを思い出しています。』という書き出しです。

 いつか、パリの安宿で村上氏と過ごした時間についても書けたらと思っています。

僕の45年間ー352010/07/26 00:02

 地中海の船旅は波が穏やかで快適でした。
 船室では画家の村上さんが一大決心をしたようでした。
「大坂さん、手伝ってもらえる?」と声をかけてきました。
「あのネ、このイタリア語の辞典2冊をネ、甲板まで運びたいんだけど。1冊持ってもらえる?」
村上さんは大きな大きな黒っぽいスーツケースを2つ持っていました。それぞれにイタリア語―日本語と日本語―イタリア語の辞典が入っていました。それらを上段のベッドの上に「エイッコラ」とのせてしみじみと言いました。
「今日でお別れをしようと思うんですヨ。もうじきマルセイユに着くだろうしネ。甲板からドボーンとやろうと思うんですよ。」
「1ページづつ食べながら覚えようと思ったけど、やっぱ、覚えられなかったね。残念だな。あきらめようと思います。」
村上さんはひげが濃い方ではありませんでしたがぼさぼさに伸びた無精ひげの風貌がとても悲しそうでした。
我々のキャビンは、甲板を一階とすると多分、地下4階くらいになるだろうと思われるくらい船底でした。狭い階段を、重い辞典を抱えてえっこら、えっこら2人で上りました。地中海の空も海も青々と輝いていました。僕には他人に見られて、何をしているのか訊ねられたら説明が面倒だなという思いがありました。村上さんも同じ気持ちであったらしく、二人とも自然に人影がない方へ歩いていました。村上さんは「この辺でどうお?」という顔をしました。僕はくたびれてきてもいたのでうなずきました。まず、村上さんが手すりの上に辞典をのせて押し出すように地中海へ、僕は放り投げるようにドボーンとやりました。2冊の辞典はまたたく間に海に飲まれて消えてゆきました。村上さんはボーっと海を眺めていました。寂しそうでした。

僕はマルセイユに近づくに従って余計な心配ごとが一つ加わり、気持ちが落ち着きませんでした。あの紙袋に入ったヴェトナム人船員のカメラは僕のカメラバッグにしっかり収まっていました。税関を通過した後の受け渡し場所を描いた紙も確かに受け取り、カメラとは別口で保管しました。同じキャビンの日本人の人たちは「大丈夫だ、心配するな」と若造の僕を笑っていました。

写真は地雷で障害者となった人々の歩行訓練(プノンペン)

僕の45年間ー342010/07/24 02:04

 覚えたばかりの僕の英語表現にフランス人ウエイター氏は「イエス、ウイ、ウイ」と大きくうなずきました。
 さて、話の方向は検討がついたけれど、何をしてほしいのかはまったく見当がつきませんでした。船客の中では一番の若造で、フランス語も英語も分からないことでも一番の僕にいったい何ができるというのでしょう。なけなしの頭でウエイター氏の説明の中の分かった単語を改めて思い出しながら僕は精一杯、このヴェトナム人船員の役に立ってあげたいと思いました。
That is my camera bag. と言いながら上段のベッドからかばんを下ろしました。
そして、氏が大事そうに抱えている紙袋を指差して聞いてみました。
What is this?と。
氏は大事そうに抱えていた紙袋を開けて中の物を取り出しました。キャビンにいた皆は何が出てくるのか一斉に氏の手元に集中しました。出てきたのはカメラでした。レンズが固定されている35mmのカメラでした。名称は覚えていません。茶色の皮のケースに入っていました。
 再度、フランス人ウエイター氏の熱い説明が始まりました。ウエイター氏はケースに入ったカメラを僕のカバンに入れ、船から下りるしぐさをしました。そこで、キャビンの誰かが「分かった!」と声を発しました。「つまりね、このカメラを大坂君のカメラバッグに入れて下船をしてほしいんだよ」「う~ん、これは船員が税関をうまく通過する方法なんだよ」と。
 僕は誰に聞くともなく「そんなことをして大丈夫なの」と言いました。そうすると誰かが言いました。「大丈夫でしょ。大坂君はカメラバッグを持っていて、他にもカメラがあるから疑われないんじゃないかな。」「それほど高いカメラでもなさそうだし」と。
僕の心臓は少しどきどきしてきました。

 それまでいくつかの港で下船をする経験をしましたが、いづれも一時的な下船でパスポート検査だけで入国ができました。しかし、マルセイユでは本格的な入国手続きをしなければなりません。それは未経験なことで、旅行案内書に書いてある「税関を通過する」ということは具体的にどういうことなのか分かってもいませんでした。

 そのときのキャビンには誰も反対する人がいなかったので僕が引き受けることになってしまいました。僕は少し、憂つうな気分になっていました。


みやげ物店の職員とともに

僕の45年間ー332010/07/22 16:51

 ヴェトナム人船員はいかにも困ったという風でした。キャビンにいた我々も困りました。彼が何を言いたいのか理解をしたいと思ってもその手立てがありません。しばらくお互いに顔を見ていても何も起こりませんでした。言葉の意思疎通に奇跡は起こりえないことを実感しました。彼は両手を振り振り、肩をすくめて、持ってきた紙袋を大事そうに抱えたまま帰ってゆきました。キャビンには消化不良の雰囲気が強く漂っていました。
 小一時間も経ったころでしょうか。くだんの船員は仲間を一人引き連れてまたやってきました。いつも食堂でウエイターをしているフランス人船員です。この二人はフランス語で、身振り手振り忙しく話していました。しばらくして僕の方を見、ウエイター氏は、今度は英語で何やら説明を始めました。ヴェトナム人船員が大事そうに抱えている紙袋と2段ベッドの上段に置かれている僕のカメラバッグを指差しながら、英語の言葉を捜しながらゆっくりと、しかし、フランス語にしか聞こえないくらいフラン語訛りの英語で説明を始めました。残念ながらキャビンにいた我々の誰も英語が得意ではありませんでした。僕は困ったナとは思いながら、ウエイター氏の顔をじっと見ながら、神経を集中しました。

 村上さんは向かいの上段ベッドで部厚いイタリア語の辞典と一緒に横になっていました。彼の目は辞典と僕らの間を行ったり来たりして僕らの様子を見ていました。
ウエイター氏の説明が一段落したところで一瞬シーンとなりました。キャビンにいた皆の頭脳は思いっきり想像力を働かせて、それぞれが分かった単語をつなぎ合わせて、意味のあるストーリーを作り上げようしていました。一人一人に通訳をしてもらったら皆それぞれのストーリーを語ってくれただろうと思いました。
「大坂さん、イタリア語なら僕、分かるかもしれないけどね」と上段ベッドから村上さんが声を発しました。皆、緊張がほぐれてほっとしました。

ヴェトナム人船員とウエイター氏は僕が口を開くのを待って僕の顔をじっと見ていました。
仕方がないので僕は数日前に覚えたばかりの英語表現を使ってみました。
Do you want me to do something?(僕に何かをしてほしいの?)

写真はプノンペンにある土産物屋。
ミシンはカンボジアに限らずどこの発展途上国においても現金収入を得る貴重な道具です。 カンボジアシルクを使った小物を作っていました。収益は地雷の被害者のリハビリに使われていました。
(*カンボジアには7~8百万個の地雷があるとされています。毎年2~3百名が犠牲となっています。)

僕の45年間ー322010/07/21 14:42

 一ヶ月間も船に乗っていると何人かの船員とも仲が良くなりました。いつも船室の清掃やシーツ交換をしてくれるヴェトナム人の船員とも仲が良くなりました。糊のきいた白い詰襟の上着に黒のズボンといういでたちでした。
 仲が良くなったと言っても先方はフランス語かヴェトナム語で、こっちはその両方ともだめ。加えて両方とも英語はだめという悪条件?での意思疎通には限界がありました。しかし、かろうじて身振り手振りで互いに信頼関係が生まれていました。名前を思い出せないのですが、年齢は30歳くらいであったと思います。

 地中海に入り、どこの船室でも荷造りが始まっていました。一ヶ月も船上で生活すると思うとホテルに一泊や二泊するときの気分とは違っていました。必要なものをスーツケースから出して使った後も、また使うだろうという思いで、しまわず出しっぱなしにしておくということの繰り返しで、結局、家を出発するときにやったと同じ要領での荷造りをやる羽目になっている人を多く見かけました。
 僕はもともと大きめのリュックサックにカメラバッグですから持ち物も少なく、改めて荷造りをする必要もなくのんびりしていました。
 そんなときにいつものヴェトナム人船員がキャビンにやってきました。何やらいつもの雰囲気とはすこし違っていました。もじもじしているのです。彼は僕がカメラバッグをもっていることを知っていました。そのバッグはいつもベッドの上に置かれていました。彼は自分が持ってきた小さな紙袋と僕のカメラバッグを指差して熱心に何かを伝えようとしていました。彼の説明はフランス語であったり、ヴェトナム語であったり、時折彼の知っている英語の単語が混じったりしました。しかし、僕にはサッパリ見当がつきませんでした。キャビンにいた何人かの人の顔を見ましたが、みな分からないという仕草をしていました。

写真はプノンペンにある土産物屋。「ここで買い物をしてくだされば*障害者が日々の生活ができるのです」と書かれてありました。
(*カンボジアには7~8百万個の地雷があるとされています。毎年2~3百名が犠牲となっています。)
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