僕の45年間―177 パリでコタツ2011/09/07 23:05

 益々寒い季節がやってくるというのに村上さんは為す術もなく、電灯を引き込んだ自作のダンボール製コタツに腹ばいになり、お尻を暖め、小品の制作に集中をしようとしていました。僕はその日、中座してパンやハム、チーズ、牛乳を僕が買える範囲で買って来ました。再び、部屋に戻ると村上さんは描き途中の小品の完成に集中していました。「早く仕上げて銀座に送らなくっちゃ」と。僕は彼のベッドに腰を掛けてフランスパンをかじりながら、ただただ彼の描く様子を眺めていました。


 後日談になりますが、最近、僕は村上さんが世話になっていた画廊の2代目社長さんとお目にかかる機会がありました。
 僕は当時、村上さんがお金のことで四苦八苦していたことを正直に話しました。
 「天才画家現れる」とか「日本のゴッホ村上画伯」などと大々的に週刊誌などで取り上げられた絵描きさんがパリのモンマルトルでお金に困って安宿にいるなどというのは、いかに世間知らずの若造であっても僕には合点が行きませんでした。

 
 僕がお目にかかった社長さんの前の社長さんから村上さんのことは聞いていたと仰っていました。いろいろとお話しをしているうちに次第に事情が分かってきました。年代は僕の記憶では1967~8年であったと思います。


 その画廊では度々、村上さんから手紙を受け取り、希望の金額を送金していたようでした。しかし、僕も知っていましたが村上さんには金銭感覚が著しく乏しく、全く計画性なくお金を使い、また、現金が手元にあるときには気前良く他人にご馳走をしたり、ということをしていたようでした。また、それに乗じて食事をあてにするヤカラもいたようでした。
  
 その辺のことは僕が村上さんを訪ねたときにも聞いていましたので、社長さんのお話と符合し、納得ができました。村上さんが送った画廊宛の手紙も残っているようでした。画廊では何故、お金がそんなに早くなくなるのか分からず困っていたようでした。そして、手紙のやり取りでは状況がよく分からず、画廊では、終いに番頭さんをパリに派遣をして村上さんを日本に連れ帰ったそうです。その直前あたりに僕は村上さんの痔と遭遇したのでした。


 その後の村上肥出夫画伯は、健康を取り戻し、再度、ヨーロッパ各地、北米などを旅し、多くの作品を制作なさったようでした。最終的には生まれ故郷にアトリエを構えて制作に没頭なさったようでした。しかし、不幸にも火災を起こし、多くの作品を消失なさって精神的に疲労こんぱいの状態に陥ったそうです。


 銀座の画廊は火災後に見つかった作品などで年一回「村上肥出夫展」を主宰しています。


 僕は2度ほど手紙を書きましたがあいにく返事を頂くことはありませんでした。


写真は2008年11月のテルトロ広場。
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