僕の45年間-112010/01/01 14:18

僕の母は炊きたての熱いご飯に牛乳をかけて食べるのが好きでした。僕の記憶にあったのはその匂いでした。
船の朝食にコーンフレークスと一緒に出されていたのが湯気が立っているオートミールのポリッジ(粥)だったのです。
http://cookpad.com/recipe/490529
1960年代、中2年まで青森にいてその後、東京の下宿や自活をしていてオートミールなど知るよしもありませんでしたが匂いだけは記憶にあったのです。


西欧系の船客たちがどんな風に食べるのかを観察し、僕も試みてみました。お粥ほど水分はなくどろどろした感じの熱々のオートミールを小さめのどんぶりに取り分け、改めて牛乳と砂糖をかけて食べるのが普通のようでした。何人かは砂糖ではなく塩をかけていました。僕は甘党なので砂糖をかけてぐるぐるっと混ぜて食べてみました。これは僕の口に合って美味い、と思いました。以来、毎朝食べるようになりました。周りの食わず嫌いの日本人の人たちにも勧めましたが「お粥に牛乳と砂糖をかけて食うなんて考えられない!」と一笑に付されてしまいました。
後々、イギリスで生活をしているときに知ったのですがオートミールに塩をかけて食べるのはスッコトランド系でイギリス人の多くは砂糖党でした。また、当時のフランスではこれを食べる習慣はないと言うことも知りました。


オートミールに似た食べ物にイギリスの「ライスプディング」があります。
http://blog.goo.ne.jp/qpcorn/e/0e5f9d494d7ad735eefcae0ca9b44e28
イギリスでは一般的なデザートです。材料はオートミールではなくお米です。牛乳でお粥を作り、好みで砂糖やシナモンをふりかけて食べるのです。僕もこればかりはかなり抵抗がありました。しかし、レストランの調理場でアルバイトをしていて時々作らされるはめになり、味を知らないで調理するわけにも行かず、一口、調理長の作ったのを恐る恐るスプーンで口に入れてみました。シナモンの香りが口いっぱいに広がり「ご飯」とは全く別物の印象でした。
僕はこのライスプディングをも周りにいた日本人に進めましたがオートミールの時と同じで、頭から否定され誰も試みようとはしませんでした。先入観念とは恐ろしいものあることを学習した一件でした。


写真はままごとをする少女 カンボジア

僕の45年間-122010/01/02 13:32

カンボジア号の最初の寄港地は香港でした。
横浜を出たのは12月9日で少しずつ寒さを感じる季節になっていました。しかし、真っ白な巨船は静かに南下をし、最も格安な船底の船室では湿度も増し、暑さを感じるようになってきました。
皆、それまで来ていた冬の衣類を着替え始め、半袖や人によっては半ズボンになる人もいました。
僕は季節によって着替えるなどということは考えもしませんでした。12月に日本を出て6ヶ月くらいの滞在で帰国する腹づもりでしたからヨーロッパの冬のことばかりに頭がいっていました。ましてや船上で夏用の衣類が必要になるだろうとは全く考えませんでした。海外旅行、ましてや船旅の経験者に話を聞くなどと言う機会は皆無でした。僕の衣類は中くらいのリュックサック一つに入りきるだけの分量でした。ズボンはウール地の濃い茶色のが1本だけでした。衣類にはあまり頓着のない方ですが、それにしても今考えてみると噴飯ものです。

香港には2泊しました。下船手続きや上陸手続きを終えてタラップを下り、振動のない大地を数日ぶりで踏むのは格別でした。足もとは少しふらふらしましたが、学校の教科書に書いてあったイギリスの植民地である香港に、実際に自分の足で立っていることは、「ここが香港だ」と大きな声で言い聞かせたくなるくらい感動をしました。ましてや僕にとって外国の土地を踏むのは初めての経験でしたからなおさら強い感動を覚えました。
数人の同じ船室の人たちと一緒に下船し、街へ繰り出しました。気持ちの上での高まりと暑さで頭はボーっとしていたように思います。

ご承知の通り、香港は英国の植民地でした。街中の看板は漢字と英語で書かれていました。
英語不得意の僕は何を書いているのかさっぱり分かりませんでした。漢字から推察して理解をするしかありませんでした。それもまた悔しい思い出です。
英国人が多く住んでいると言われた坂道の地区へ足を踏み入れたときには、なるほどこれは違うと思いました。その地区直前の通りの、統一感のないごちゃごちゃとした街並みとは全く異質な雰囲気が漂っていました。
僕は東京の府中に住んでいました。家から数分のところに米軍の基地があり、それに通じる並木道の両脇は飲食店やバーが乱立し、けばけばしいネオンサインがその派手さを競っていました。日中はあまり人通りがありませんでしたがときどき頭にカールを巻き付けた女の人や出前を運ぶ自転車を見かけました。その一本の並木道は甲州街道を入ったところから始まり、まっすぐに伸びて、行き着く先は米軍基地の衛兵が数人立っているゲートでした。そこから先は完全にフェンスで囲まれていました。僕はその通りの入り口にあったカウンターだけの小さな喫茶店にたびたび行っていましたから散歩ついでにゲートまで歩きフェンスの向こう側の様子を眺めていました。
白のペンキを塗った建物が整然と、あたかも箱庭のように、隅から隅まで敷き詰められた手入れの行き届いた緑の芝生に映えていました。僕はある意味で西洋文化と日本文化の境界を見ていました。
香港でイギリス人住居区を見たときには、やはりね、と思いました。

繁華街を歩いていたときに路上で石油缶のようなもので煮炊きをしているのに出くわしました。こんな往来の激しいところでか、とびっくりしたのを覚えています。女の人が道路の真ん中にしゃがみ、通行人のことは意に介さず煙を出して何やらを煮ていました。しかし、その光景は僕が小さい頃、夕方になると頻繁に目にしたものでした。僕の家の裏の通りには戦後の急ごしらえのバラックが軒をなしていました。今でこそこぎれいな家並みになっていますが当時は子供が遊ぶのも煙をもうもうと出しながら七輪で魚を焼くのも、夫婦げんかをするのもみな穴だらけの、ときどき馬車が通り馬糞を落として行く路上で繰り広げられていました。夕日が生活者の長い影をつくり、あたかも人々の生活を描いた舞台のようなものでした。

僕は写真を撮りたいな、と思いながら香港の街をぶらぶら夕方まで歩き回りました。しかし、持っているフィルムの本数は限られていましたからあきらめざるを得ませんでした。

ゴム長を履いて2010/01/02 16:29

2010年の初撮り写真です。
札幌には珍しく湿った重い雪がしんしんと降っています。
ちょっと玄関を開けてみました。
室内から外を見ていて「寒そうだね。」と話していたので意外でしたが、比較的暖かかく感じました。
で、妻と散歩をと思いこのような出で立ちで100歩も歩いたでしょうか。家から地下鉄の駅まで2〇〇歩ですからその半分くらいのところで、「だめ、歩けない。帰ろう。」と妻が言い出しました。


一歩踏み出すたびに着地した足が左右前後にずるずる~っともって行かれ、次の一歩をと思っても先に着地した足の方向が予定のとは違っているので、次に踏み出す方向が定まらないのです。足2本が絡まってしまいそうでした。足腰の筋肉が老化し始めている身にはとてつもなく重労働な歩行訓練となりそうでした。で、僕もあっさりと「そうしよう。こりゃ、無理だ。」と引き返しました。

ゴム長で散歩などと言うのは何十年も経験がないことです。家のゴム長は気合いを入れて除雪機で作業をするときのために用意はしているのです。出かけるときにはいつも冬用のスニーカーで十分間に合うのです。しかし、今年は様子が違っているような気がします。
もしかしたらこれからもたびたびゴム長にお世話になるかもしれません。

僕の45年間-132010/01/03 20:59

後年「慕情(原題Love is a Many-splendored Thing)」という映画を見る機会がありました。
何年ころかは覚えていません。今はすでに販売はされていませんがDVDの前にレーザーデスクというのがあり、ビデオに比べて数段きれいな映像を提供してくれました。特に一時停止したときの映像にぶれがなく、英語を教える際に電気紙芝居的な利用で大いに重宝しました。
http://www.youtube.com/watch?v=alRKMk8NlDY
ご存じのように舞台は香港です。大変懐かしく観た記憶があります。
この作品は1955年の発表ですから僕が香港を訪れた時期の12~3年前に撮影をされたのだろうと思います。内容はメロドラマです。僕は音楽とともに大変好きな作品です。この映画でEurasian(白人とアジア人の混血)という単語を知り、なるほどと思ったのを覚えています。

街の雰囲気はまさしく僕の最初の香港の印象と同じです。いま、僕の手元にDVDがないので確認ができないのですが香港全体を鳥瞰した映像が冒頭か最後に出てきます。それを見たときには「そう、そう、こんな感じだったナ」と思いながら、当時は2度と訪れる機会はないだろうと思っていた香港を懐かしく思ったものです。

僕は、日本出発前は荷物を最小限のにしなければという思いが強くあってリュックサックとカメラ鞄のみという出で立ちで船に乗り込みました。しかし、最初の寄港地の香港で小ぶりのショルダーバッグが必要だと気づきました。冬用の上着を地図などを入れる物入れの代わりに着て歩くには暑すぎたのでした。船を下りたとたんに汗どろどろでしたから。そこで鞄の露天商で格安のカーキー色のキャンバス地のショルダーバッグを買いました。初めての買い物でした。これなら上着を着て歩かなくても不便をしないだろうと大いに満足をして、店先で上着のポケットの物を出してバッグに入れ替えました。

僕は限られた500ドルと現金2万円という旅費しか持っていませんでした。したがって、寄港地で遣えるお金は全くなく、街で中華料理を食べるなどと言うことは論外でした。しかし、一緒に下船した人たちは「これは安いね~。」といいながら小物を買って喜んでいました。僕は、皆、同じ500ドルしか持っていないはずなのに余裕があるな~、と思いながら買い物の様子を眺めていました。
昼どきには困りました。安い屋台で食べるにしてもお金が必用です。僕にはそんなお金の余裕はなく、せいぜい冷たい飲み物で我慢をせざるを得ませんでした。そんなことで街の見物はしたい、腹は減るという有様でした。で、空腹が我慢できず、午後2時頃には一人で船に引き返しました。

食事に関しては、船は天国です。3食に加えてAfternoon tea があり、飲み物と菓子や果物がふんだんに出されました。
その日は昼抜きでしたからAfternoon teaが待ち遠しく食堂でうろうろしていました。ほとんどの船客は下船をしていて食堂はがらんとしていました。僕は一人で悠々とサンドイッチなどのAfternoon teaにあずかりました。以来、下船をする際には、昼どきには戻ることを給仕長に告げることにしました。つまり、船に戻って街に出直すという作戦をとることにしたのです。

その日、ゆっくり空腹を満たして、やれやれと思いながら一息を入れ、さっき買ったばかりの鞄に目をやりました。僕は真っ青になりました。

<慕情>
作詞:P・F・ウェブスター、作曲:S・フェイン
日本語詞:岩谷時子、唄:ナット・キング・コール他

春浅きあした/風に揺れて咲くバラの花こそ
二人のはかない恋の姿よ/つかの間に咲いて散る
君とただ二人/霧にぬれ 固くいだき合いて
口づけし別れの丘に/今日も君慕い 君想う
<Love is a Many-splendored Thing>
Love is a many-splendored thing
It's the April rose
That only grows in the early spring
Love is nature's way
Of giving a reason to be living
The golden crown that makes a man a king
Once on a high and windy hill
In the morning mist two lovers kissed
And the world stood still
Then your fingers touched my silent heart
And taught it how to sing
Yes, true love's a many-splendored thing
Once on a high and windy hill

写真はカンボジアの市場で店番をする少年

僕の45年間-142010/01/04 22:07

僕は腹一杯、Afternoon teaを満喫し、円い窓から岸壁の様子を眺めていました。
岸壁では荷役の人々が炎天下、大きな箱を背負って忙しそうに、ゆらゆら揺れるタラップを上ったり下りたりしていました。貨物や食料を積み込んでいる風でした。船内には客はいなく、船員も少数でがらんとしていました。
僕は街で買ったばかりの鞄をテーブルの上に無造作に置いていました。いかに食堂が僕だけの専有であっても盗難には気をつけていました。何気なく目をやったときに鞄の裏側、つまり身体に接する側が見えました。そして、唖然としました。そこにはカミソリで切られたように横に一直線の切り口があったのです。15センチくらいの切り口でした。僕は一瞬、やられたな、と思い、頭から血が引いて行くのが分かりました。
鞄が切られていたにもかかわらず、僕は何故か首から下着の中に下げていた貴重品の布袋を手でまさぐって無くなっていないことを確かめていました。
いまでこそ旅行用品の売り場へ行くと既製品で売っていますが、当時はなく、母が木綿の生地で丁度の大きさに作ってくれたものでした。

僕は中三の時に青森から上京しました。そのときにも同じようなのを母が作ってくれた記憶があります。当時は青森駅から上野駅まで急行列車で15時間もかかりました。昭和35年、36年(1960、61年)頃です。帰省の時期には列車の通路に何時間も立ったままの乗客がいることも珍しくはない時代でした。帰省のたびに父が買って送ってくれた切符は3等列車の椅子席でした。硬い木製の、背もたれが垂直な大変窮屈な椅子席でした。列車はいつも混み合っていました。出発の何時間も前に上野駅に行き、席を確保できるようにプラットホームで並んだものでした。
そんなことだったので母の手製の首から下げる貴重品袋にはなじみがありました。腹巻きをしていた大人たちはその中にお金を入れていました。

パスポートやトラベラーズチェック、予防接種証明書などを入れてあり、眠るときでもシャワーを浴びるときでも決して身から離さないように気をつけていました。

あ、あるな、と指先の感触に安心をしました。今度は鞄に手を伸ばして、開けてみました。鞄の中には地図や英語の勉強の本、手帳、筆記用具を入れていました。幸いなことに英語の本が切り裂かれた側に入っていて、本の裏表紙に傷が付いたものの盗まれた物はありませんでした。やれやれと思いながら、それにしてもいつ、どこでは皆目見当が付きませんでした。

夕方になっても外気温は涼しくなることはありませんでした。僕の船室の人々は暑さにぐったりの呈で街から戻ってきました。船室でも甲板でも食堂でも香港初日の武勇伝が語られ、またいつものようにわいわいがやがやと賑やかになりました。
僕は鞄を切られたことは、何故か恥ずかしくて誰にも話せませんでした。

写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校

「さっぽろ雪まつり」の準備2010/01/05 23:29

札幌の大通り公園では恒例の「さっぽろ雪まつり」の準備が始まりました。
毎年思うのですがこれはまさしく防衛庁主導の「観光産業」だなということです。

以下、「さっぽろ雪まつり実行委員会」の公式サイトからの情報を交えて考えてみたいと思います。
http://www.snowfes.com/

自衛隊の協力を仰いで札幌近郊からきれいな雪を大通り公園までトラックで運び、雪像するための雪を公園内に確保します。そのために必要な雪の量は、5トントラックで約5千台にもなります。雪不足の年には遠く30キロも離れた中山峠付近から雪を運びます。
公式ホームページによると「平均的な降雪量の場合として、第46回(平成7年)の総走行距離は19万キロメートルでしたが、雪の少なかった第48回(平成9年)には、倍近い37万5,500キロメートル走行しました。これは、地球から月までの距離に相当し、地球を9周することになります。」とあります。
また、「大雪像は、陸上自衛隊の第11旅団を基幹とする北部方面隊と札幌市大雪像制作団が制作にあたっています。準備作業は、11月ころから始まって、雪像の資料収集、雪像の設計、雪像モデルの制作や資材準備などが行われます。大通会場では1月上旬から木枠を組み、1月中旬には枠組みの中に雪を詰め入れて固めます。1月下旬には木枠をはずし、荒削りを行います。その後、細部の彫刻や化粧雪できれいに仕上げ、足場の解体や雪像点検を終えて会期直前に完成します。」と説明がされています。

これらは自衛隊が協力する作業の一部です。細々と見て行くともっとたくさんの作業に関わっていると思います。
防衛庁にとっては絶好の広報の機会かもしれません。しかし、と僕は思うのです。これらの費用は誰が負担しているのだろうかと。公式ホームページに質問のサイトがありましたので「自衛隊が負担するトラックの燃料代と人件費の総額」を質問しました。
回答があったら再度、ここでご紹介したいと思います。

試算として、総走行距離が19万キロメートルで燃費が1リットル当たり5キロとすれば必用な燃料は38,000リットルとなります。燃料1リットルの値段が120円とすれば4560,000円かかります。加えて人件費です。
また、環境問題のことも合わせて考えてみると、雪まつりの在り方を再考すべき時期が来ているのではないかと思うのは僕だけでしょうか。
むろん、観光客がそれ以上にお金を落としてくれるので経済効果の収支は黒字だという説明は承知の上でこれを書いてみました。

例の政府の必殺仕分け人はどのように考えるのでしょうか。

僕の45年間-152010/01/06 20:27

香港での48時間の滞在は初めての外国と言うこともあって胸の高まりを憶えるものでした。しかし、やはり英語力のなさを痛切に感じることにもなりました。学校での英語には苦手意識の方が先立って横文字を見ると拒絶反応を起こしていました。そのことが実践の場である香港のマーケットでも同じでした。正しい英語だろうが正しくない英語だろうが用を足す道具だと悟るまでにはしばらく時間がかかりそうでした。

僕は、船中では相変わらず赤い表紙の「英会話」の本とにらめっこをしていました。前述の日系カナダ人の女性が夫を訪ねて船室にくるときは、またしかられるかなと思いながらも少ずつ質問もして教えてもらいました。

画家の村上さんは相変わらずイタリア語の辞典を読み、読み終わったらムニャムニャと口に入れて消化をしようとしていました。


村上さんの下のベッドのポルノ小説の人は時々にやにやと笑いながら数ページづつ読み進んでいる風でした。この方は白井さんという海洋調査を専門としている方でした。インドネシアの海域でダイビングをしていろいろと調査研究をする仕事だと話してくれました。
白井さん「大坂君は何をしにヨーロッパへ行くの?」
僕「写真を撮りたいんです。しかし、その前に語学を勉強しなくちゃと思って。なにしろ、この有様ですから。」
白井さん「僕を見て。何とかなるもんですよ。だんだん慣れるから大丈夫。」
僕「そりゃ、基礎のある人にはそうかもしれないけれど。」
読みかけの、どぎつい表紙のペーパーバックを指して
白井さん「これだよ。前にも言ったでしょ。」「ところで、大坂君はどんなカメラを持ってきたの?」
僕はアサヒペンタックスであることやレンズの種類を説明しました。
白井さん「いいね。僕と一緒にボンベイで下船しない?僕と一緒にインドネシアへ行って僕が撮って欲しいのを撮ってくれないかな。旅費とか生活費は僕が出せるよ。」
写真の仕事を提案されるのは生まれて初めてのことでした。僕はドキドキしました。頭がボーっとしてきました。
白井さん「インドネシアは半年くらいで、その後はヴェトナムを考えているんだけどさ。」
僕「申し訳けないんですけど僕は泳げないし、水中写真は器材もないし・・」
白井さん「水中のは僕が撮るんだけど、陸上の環境とか、いろいろ撮るものがあるんでね。」
「東京で写真の仕事、やったことあるの?」
僕「撮影の仕事は経験がありません。暗室の仕事はアルバイトでやったことがあります。」
白井さん「どこで?」
僕「週刊文春です。」
白井さん「あ、そう。それで十分だよ。」
白井さんはとても簡単なことのように説明をし、一緒に仕事をやろう、と誘ってくれました。
僕は20歳で白井さんは32~3歳に見えました。小柄な方でしたがそのときはとても大きな人に見えました。

ということで僕はその晩は寝ずに悩み、悩み、考えました。
船は深夜に香港の岸壁を静かに離れ、外海へ向かっていました。
船室の円い窓からは遠くに香港の明かりが見えていました。

写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校
3部授業をやっていました。

僕の45年間-162010/01/07 21:51

僕は一晩中考えていました。
船底の船室ですからエンジンの振動がわずかですがベッドにも伝わってきました。波が静かであればあるほど横たわっている僕の背中に感じることができました。

もしかしたら写真で飯が食えるようになる貴重なチャンスになるかもしれないと思いつつ、同時に、ここで語学の習得を断念したら一生語学音痴で終わり、残りの人生を劣等感を引きずって生きることになるのではないか、などと懸命に自分なりに理性的に考えました。

僕は数学や物理、化学などの科目も不得意なのですが、不思議なことにそれらについては全く劣等意識がありませんでした。しかし、何故か外国語についてだけはそれを払拭できず、重い気分を引きずっていました。

高校生の時にこんな経験をしました。同期に久保田君というどんな科目でもこなすオールマイティーな友人がいました。ある日、彼は僕の家に遊びに来て「大坂、おまえレコードを持っているか?」というのでジャズのはあるよと答えました。で、それを聴きながら彼は言いました。「なんのことを歌ってるのか分かるのかよ?」彼は僕が英語は全然だめなのを知りながら訊くのでした。僕は「そんなの分かるはずがないだろう。だけど見当はつくよ。音楽は言葉が分からなくても通じるって言うだろう。」とちょっとむっとなりながら答えました。久保田君は続けて「じゃ、何を歌っているのか紙に書いてみろよ。」と言うのです。僕はむきになってそのジャズから想像できることを紙に書き、彼に見せました。彼は「う~ん」とうなって「まあ、まあ、当たってるな。」とニヤリと笑いながら言いました。
僕はこんちくしょう、と思いましたが、それで英語が分かるようになるわけでもありませんから益々自分に腹が立ちました。

僕が何故、50年近く前のことをこんなに鮮明に覚えているのかは、つまり、それくらい僕にとっては英語はいやなことだったのです。彼は多分、全く覚えていないだろうと思うのですが。

劣等意識から自由になるには勉強するしかないと言うことは自明なことです。僕は劣等感からは解放されたいと強く思っていました。

それでもうとうとしたようでした。目が覚め、いつものように食堂へ行きオートミールやパン、卵を食べて船室に戻りました。僕よりも早く起きていたらしい白井さんも、どこからか戻っていました。
僕は思いきって一晩考えたことを伝えました。

写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校の教師
ここの仕事だけでは食べて行けない、とこぼしていました。

僕の45年間-172010/01/10 21:16

白井さんは「また機会があると良いなア」といいながら残念がってくれました。
彼は何かの縁だからと言って淡いピンク色をした珊瑚礁でできたネクタイピンをプレゼントしてくれました。ご自分が海中で調査していたときに見つけた破片で作ったと言っていました。最近までその在りかが分かっていたのですが何度も引っ越しをする中でどこかへしまい忘れてしまいました。

カンボジア号は紅茶のセイロンでよく知られている旧英国領のセイロンへ向かってどんどん南下していました。(1972年に独立をし、共和国となって今はスリランカという名前に変わっています。)
従来の航路ではベトナムへも寄港していましたが僕の乗った1966年にはすでにベトナム戦争が始まっていたので素通りをしました。

数日後にセイロンに到着し、香港の時と同じように下船や仮入国の手続きを終えて、みな街の方へ散って行きました。記憶がはっきりしていませんが僕は何かの都合で下船が遅れみなと一緒の行動はとれませんでした。下船をしたときにはすでに港はがらんとしていました。焼け付くような炎天下に見えたのは古ぼけた一台のバスだけでした。むろん言葉は皆目分かりませんでした。しかし、船にじっとしているのはもったいないと思い、ちょっと勇気を出してバスに乗り込みました。客は僕一人でした。どこかへ連れられて行き船に戻れなかったらどうしようという心配もありましたが運転手の顔をみて「大丈夫かな」と思ったのでした。
どこへ向かって行くバスかも分からないまま、けたたましい騒音とともに背後にもうもうと排気ガスを残して走り出しました。僕は「Want to go to town」と言ったつもりでしたがバスの行方は違っていたようでした。砂煙を巻き上げながらどんどん田舎の方へ走っている風でした。僕は最前列の席に陣取っておっかなビックリ行く先を見ていました。バスの中はトースターのように暑く、ほこりが充満していました。
途中、バス停らしいのはどこにもなく、ただひたすら赤茶けた道路をノンストップで走り続けました。周りには南国らしい感じの様々な木や草花が見えました。
しばらく走った頃に、少しですが涼しさを感じるようになりました。周りには大きな椰子の木が見え始めていました。
椰子の木だと分かったのは高校の時に九州へ修学旅行で行ったからでした。

バスはやがて木の葉でできた民家がいくつかある椰子の木の林の中で停まりました。数人の子供たちが遠くから異星人を眺めていました。バスのエンジンが切られたときには、シーンと静まりかえり、無音の世界でした。
みな真っ黒に日焼けしていて、目だけが光って見えました。何が起こるのかと不安感の強かった僕には「やー、こんにちは」と言うほどの余裕はありませんでした。
バスから下りた運転手は椰子の木を指して、年長の男の子に何やら言いつけているようでした。その男の子はうなずくと刃渡りが2~30センチもある大きなナイフをどこからか持ってきました。一瞬、僕はどきりとしました。来なければ良かったな、と思いましたが後の祭りです。僕は身構えました。

写真は、僕が教室に招き入れられたときに「このひとだ~れ」と後ろの子に話しかけていました。

僕の45年間-182010/01/11 21:55

年長の少年が持ってきたナイフは先が幅広く、いかにもナイフを振り回して刃先で切るような作りでした。
少年は腰にそのナイフを無造作にさして、一本の椰子の木を実に器用に登り始めました。てっぺんまで登り切ると、下で様子を見ていたバスの運転手が何やら指示をしました。すると少年は腰からナイフをとって振りかざし、椰子の実をバサッ、バサッと切り落とし始めました。僕の足下近くに数個の実が上空から降ってきました。地面に落ちて割れるかと思いましたがそんなこともなく原型のままドサッという音を立てて落ちてきました。


数個の実を切り落として、少年はスルスルと椰子の木を滑るように下りてきました。ナイフを運転手に渡すと、今度は運転手が片手に実をもって、もう一方でナイフを振りながら白いココナッツが見えるまで削りました。最後に注意深く上部を平らに切り落としました。それを僕に差し出し、手真似で飲めと言いました。
僕はさっきまで身構えていたことをすっかり忘れて、素直に口をつけて実の中の液体を味わってみました。生ぬるい、かすかに甘みのある液体が僕ののどを通りました。運転手も少年も「どうだ、甘くて美味いだろう」という笑みを浮かべていました。
この液体がナタ・デ・ココの原料であることを知ったのはずうっと後のことでした。


他の少年らもみなココナッツ・ジュースを飲み終わった頃、運転手は再度、バスに乗れと言う仕草をし、僕らはタクシーまがいの路線バスで田舎を走り回りました。結局、最後まで乗客は僕が一人だけでした。僕にはそのバスが本当に路線バスであったのかどうかさえ分かりませんでしたが4時ころには埠頭に送り届けてくれました。


僕は、下船するときに両替した現地通貨はわずかでしたからバス賃がいくらになるのだろうと気になり始めていました。
料金を訊ねたところで分かるわけがないので、僕はポケットからお金を取り出して手のひらの乗せ、バス賃を取るように促しました。しかし、運転手は「いらない」というそぶりでエンジンをかけ「降りろ」と僕に言って走り去りました。

結局、僕はセイロンの埠頭近くの田舎をドライブしただけで、肝心の街を見物することはできませんでした。
翌朝、カンボジア号はインドのボンベイ、今のムンバイへ向けて、ゆっくりと埠頭を離れました。

写真は、僕が英語で自己紹介をした後、笑顔を見せる女生徒。
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