僕の45年間-162010/01/07 21:51

僕は一晩中考えていました。
船底の船室ですからエンジンの振動がわずかですがベッドにも伝わってきました。波が静かであればあるほど横たわっている僕の背中に感じることができました。

もしかしたら写真で飯が食えるようになる貴重なチャンスになるかもしれないと思いつつ、同時に、ここで語学の習得を断念したら一生語学音痴で終わり、残りの人生を劣等感を引きずって生きることになるのではないか、などと懸命に自分なりに理性的に考えました。

僕は数学や物理、化学などの科目も不得意なのですが、不思議なことにそれらについては全く劣等意識がありませんでした。しかし、何故か外国語についてだけはそれを払拭できず、重い気分を引きずっていました。

高校生の時にこんな経験をしました。同期に久保田君というどんな科目でもこなすオールマイティーな友人がいました。ある日、彼は僕の家に遊びに来て「大坂、おまえレコードを持っているか?」というのでジャズのはあるよと答えました。で、それを聴きながら彼は言いました。「なんのことを歌ってるのか分かるのかよ?」彼は僕が英語は全然だめなのを知りながら訊くのでした。僕は「そんなの分かるはずがないだろう。だけど見当はつくよ。音楽は言葉が分からなくても通じるって言うだろう。」とちょっとむっとなりながら答えました。久保田君は続けて「じゃ、何を歌っているのか紙に書いてみろよ。」と言うのです。僕はむきになってそのジャズから想像できることを紙に書き、彼に見せました。彼は「う~ん」とうなって「まあ、まあ、当たってるな。」とニヤリと笑いながら言いました。
僕はこんちくしょう、と思いましたが、それで英語が分かるようになるわけでもありませんから益々自分に腹が立ちました。

僕が何故、50年近く前のことをこんなに鮮明に覚えているのかは、つまり、それくらい僕にとっては英語はいやなことだったのです。彼は多分、全く覚えていないだろうと思うのですが。

劣等意識から自由になるには勉強するしかないと言うことは自明なことです。僕は劣等感からは解放されたいと強く思っていました。

それでもうとうとしたようでした。目が覚め、いつものように食堂へ行きオートミールやパン、卵を食べて船室に戻りました。僕よりも早く起きていたらしい白井さんも、どこからか戻っていました。
僕は思いきって一晩考えたことを伝えました。

写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校の教師
ここの仕事だけでは食べて行けない、とこぼしていました。
Free Access Counter Templates