僕の45年間-122010/01/02 13:32

カンボジア号の最初の寄港地は香港でした。
横浜を出たのは12月9日で少しずつ寒さを感じる季節になっていました。しかし、真っ白な巨船は静かに南下をし、最も格安な船底の船室では湿度も増し、暑さを感じるようになってきました。
皆、それまで来ていた冬の衣類を着替え始め、半袖や人によっては半ズボンになる人もいました。
僕は季節によって着替えるなどということは考えもしませんでした。12月に日本を出て6ヶ月くらいの滞在で帰国する腹づもりでしたからヨーロッパの冬のことばかりに頭がいっていました。ましてや船上で夏用の衣類が必要になるだろうとは全く考えませんでした。海外旅行、ましてや船旅の経験者に話を聞くなどと言う機会は皆無でした。僕の衣類は中くらいのリュックサック一つに入りきるだけの分量でした。ズボンはウール地の濃い茶色のが1本だけでした。衣類にはあまり頓着のない方ですが、それにしても今考えてみると噴飯ものです。

香港には2泊しました。下船手続きや上陸手続きを終えてタラップを下り、振動のない大地を数日ぶりで踏むのは格別でした。足もとは少しふらふらしましたが、学校の教科書に書いてあったイギリスの植民地である香港に、実際に自分の足で立っていることは、「ここが香港だ」と大きな声で言い聞かせたくなるくらい感動をしました。ましてや僕にとって外国の土地を踏むのは初めての経験でしたからなおさら強い感動を覚えました。
数人の同じ船室の人たちと一緒に下船し、街へ繰り出しました。気持ちの上での高まりと暑さで頭はボーっとしていたように思います。

ご承知の通り、香港は英国の植民地でした。街中の看板は漢字と英語で書かれていました。
英語不得意の僕は何を書いているのかさっぱり分かりませんでした。漢字から推察して理解をするしかありませんでした。それもまた悔しい思い出です。
英国人が多く住んでいると言われた坂道の地区へ足を踏み入れたときには、なるほどこれは違うと思いました。その地区直前の通りの、統一感のないごちゃごちゃとした街並みとは全く異質な雰囲気が漂っていました。
僕は東京の府中に住んでいました。家から数分のところに米軍の基地があり、それに通じる並木道の両脇は飲食店やバーが乱立し、けばけばしいネオンサインがその派手さを競っていました。日中はあまり人通りがありませんでしたがときどき頭にカールを巻き付けた女の人や出前を運ぶ自転車を見かけました。その一本の並木道は甲州街道を入ったところから始まり、まっすぐに伸びて、行き着く先は米軍基地の衛兵が数人立っているゲートでした。そこから先は完全にフェンスで囲まれていました。僕はその通りの入り口にあったカウンターだけの小さな喫茶店にたびたび行っていましたから散歩ついでにゲートまで歩きフェンスの向こう側の様子を眺めていました。
白のペンキを塗った建物が整然と、あたかも箱庭のように、隅から隅まで敷き詰められた手入れの行き届いた緑の芝生に映えていました。僕はある意味で西洋文化と日本文化の境界を見ていました。
香港でイギリス人住居区を見たときには、やはりね、と思いました。

繁華街を歩いていたときに路上で石油缶のようなもので煮炊きをしているのに出くわしました。こんな往来の激しいところでか、とびっくりしたのを覚えています。女の人が道路の真ん中にしゃがみ、通行人のことは意に介さず煙を出して何やらを煮ていました。しかし、その光景は僕が小さい頃、夕方になると頻繁に目にしたものでした。僕の家の裏の通りには戦後の急ごしらえのバラックが軒をなしていました。今でこそこぎれいな家並みになっていますが当時は子供が遊ぶのも煙をもうもうと出しながら七輪で魚を焼くのも、夫婦げんかをするのもみな穴だらけの、ときどき馬車が通り馬糞を落として行く路上で繰り広げられていました。夕日が生活者の長い影をつくり、あたかも人々の生活を描いた舞台のようなものでした。

僕は写真を撮りたいな、と思いながら香港の街をぶらぶら夕方まで歩き回りました。しかし、持っているフィルムの本数は限られていましたからあきらめざるを得ませんでした。

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