僕の45年間-172010/01/10 21:16

白井さんは「また機会があると良いなア」といいながら残念がってくれました。
彼は何かの縁だからと言って淡いピンク色をした珊瑚礁でできたネクタイピンをプレゼントしてくれました。ご自分が海中で調査していたときに見つけた破片で作ったと言っていました。最近までその在りかが分かっていたのですが何度も引っ越しをする中でどこかへしまい忘れてしまいました。

カンボジア号は紅茶のセイロンでよく知られている旧英国領のセイロンへ向かってどんどん南下していました。(1972年に独立をし、共和国となって今はスリランカという名前に変わっています。)
従来の航路ではベトナムへも寄港していましたが僕の乗った1966年にはすでにベトナム戦争が始まっていたので素通りをしました。

数日後にセイロンに到着し、香港の時と同じように下船や仮入国の手続きを終えて、みな街の方へ散って行きました。記憶がはっきりしていませんが僕は何かの都合で下船が遅れみなと一緒の行動はとれませんでした。下船をしたときにはすでに港はがらんとしていました。焼け付くような炎天下に見えたのは古ぼけた一台のバスだけでした。むろん言葉は皆目分かりませんでした。しかし、船にじっとしているのはもったいないと思い、ちょっと勇気を出してバスに乗り込みました。客は僕一人でした。どこかへ連れられて行き船に戻れなかったらどうしようという心配もありましたが運転手の顔をみて「大丈夫かな」と思ったのでした。
どこへ向かって行くバスかも分からないまま、けたたましい騒音とともに背後にもうもうと排気ガスを残して走り出しました。僕は「Want to go to town」と言ったつもりでしたがバスの行方は違っていたようでした。砂煙を巻き上げながらどんどん田舎の方へ走っている風でした。僕は最前列の席に陣取っておっかなビックリ行く先を見ていました。バスの中はトースターのように暑く、ほこりが充満していました。
途中、バス停らしいのはどこにもなく、ただひたすら赤茶けた道路をノンストップで走り続けました。周りには南国らしい感じの様々な木や草花が見えました。
しばらく走った頃に、少しですが涼しさを感じるようになりました。周りには大きな椰子の木が見え始めていました。
椰子の木だと分かったのは高校の時に九州へ修学旅行で行ったからでした。

バスはやがて木の葉でできた民家がいくつかある椰子の木の林の中で停まりました。数人の子供たちが遠くから異星人を眺めていました。バスのエンジンが切られたときには、シーンと静まりかえり、無音の世界でした。
みな真っ黒に日焼けしていて、目だけが光って見えました。何が起こるのかと不安感の強かった僕には「やー、こんにちは」と言うほどの余裕はありませんでした。
バスから下りた運転手は椰子の木を指して、年長の男の子に何やら言いつけているようでした。その男の子はうなずくと刃渡りが2~30センチもある大きなナイフをどこからか持ってきました。一瞬、僕はどきりとしました。来なければ良かったな、と思いましたが後の祭りです。僕は身構えました。

写真は、僕が教室に招き入れられたときに「このひとだ~れ」と後ろの子に話しかけていました。

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