僕の45年間-142010/01/04 22:07

僕は腹一杯、Afternoon teaを満喫し、円い窓から岸壁の様子を眺めていました。
岸壁では荷役の人々が炎天下、大きな箱を背負って忙しそうに、ゆらゆら揺れるタラップを上ったり下りたりしていました。貨物や食料を積み込んでいる風でした。船内には客はいなく、船員も少数でがらんとしていました。
僕は街で買ったばかりの鞄をテーブルの上に無造作に置いていました。いかに食堂が僕だけの専有であっても盗難には気をつけていました。何気なく目をやったときに鞄の裏側、つまり身体に接する側が見えました。そして、唖然としました。そこにはカミソリで切られたように横に一直線の切り口があったのです。15センチくらいの切り口でした。僕は一瞬、やられたな、と思い、頭から血が引いて行くのが分かりました。
鞄が切られていたにもかかわらず、僕は何故か首から下着の中に下げていた貴重品の布袋を手でまさぐって無くなっていないことを確かめていました。
いまでこそ旅行用品の売り場へ行くと既製品で売っていますが、当時はなく、母が木綿の生地で丁度の大きさに作ってくれたものでした。

僕は中三の時に青森から上京しました。そのときにも同じようなのを母が作ってくれた記憶があります。当時は青森駅から上野駅まで急行列車で15時間もかかりました。昭和35年、36年(1960、61年)頃です。帰省の時期には列車の通路に何時間も立ったままの乗客がいることも珍しくはない時代でした。帰省のたびに父が買って送ってくれた切符は3等列車の椅子席でした。硬い木製の、背もたれが垂直な大変窮屈な椅子席でした。列車はいつも混み合っていました。出発の何時間も前に上野駅に行き、席を確保できるようにプラットホームで並んだものでした。
そんなことだったので母の手製の首から下げる貴重品袋にはなじみがありました。腹巻きをしていた大人たちはその中にお金を入れていました。

パスポートやトラベラーズチェック、予防接種証明書などを入れてあり、眠るときでもシャワーを浴びるときでも決して身から離さないように気をつけていました。

あ、あるな、と指先の感触に安心をしました。今度は鞄に手を伸ばして、開けてみました。鞄の中には地図や英語の勉強の本、手帳、筆記用具を入れていました。幸いなことに英語の本が切り裂かれた側に入っていて、本の裏表紙に傷が付いたものの盗まれた物はありませんでした。やれやれと思いながら、それにしてもいつ、どこでは皆目見当が付きませんでした。

夕方になっても外気温は涼しくなることはありませんでした。僕の船室の人々は暑さにぐったりの呈で街から戻ってきました。船室でも甲板でも食堂でも香港初日の武勇伝が語られ、またいつものようにわいわいがやがやと賑やかになりました。
僕は鞄を切られたことは、何故か恥ずかしくて誰にも話せませんでした。

写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校

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