M君とアラカン2013/05/11 22:47

 青森では久しぶりにM君と彼の細君に会うことができました。M君とは小学校の6年間一緒でした。
 午後遅く自宅へ伺いました。開口一番、最近コンピュータを入れ替えてプロバイダーも変えたので調子が悪いという話でした。
 M君はいつも僕のブログを見ていてくれて、ときどき僕が書くのを休むと「どうしてるの?」というメールを送ってくれていました。また、M君は季節の折り目に近所の、小さいころから馴染みのある合浦公園の写真などを送ってくれていました。それがここしばらくは音沙汰がなく今度は僕が「どうしたの?」と聞きたいのでした。

 さて、音信不通の原因は分かりました。そこで僕の得意とする、理屈は分からないけれど多分こうやるんだ、という泥縄方式であちこちをいじっていろいろな設定を試みました。OSはWIN8で僕は未経験でした。少々焦りましたが、大口をたたいた手前何とかしようという思いでした。僕のiPhoneとメールのやり取りができた時には安堵しました。

 M君は、以前は電話線を切り替えてネットにつなぐ石器時代さながらのやり方だったのですが、今回は今風に光回線導入でスピードが大幅に速くなりました。そこで僕は昔を思い出して、鞍馬天狗の動画も多分WEBで観ることができるよ、とほらを吹きました。YOUTUBEで探しましたら本当にありました。M君に「ほら、『鞍馬天狗』だとよ!」と見せましたら「おお、本当だ。アラカンだ」といって喜んでくれました。

 僕たちは放課後、よく一緒に遊びました。僕の家ではマンガ本は買ってもらえませんでしたがM君は買ってもらっていましたので度々貸してもらって読みました。「鞍馬天狗」とか「赤胴鈴之助」が僕らの時代のヒーローだったのかどうか定かではありませんが、よく真似事をしてチャンバラ遊びをしました。

 昼過ぎに千歳に着いたとたんにぶるっと身震いを覚えて、やけに寒いな~と、改めて春はまだまだ先のことらしいと思いました。

観桜会2013/05/12 21:51

 大変無愛想なことですが、僕には桜にまつわる特別な思い出はありません。家族と花見をしたことはなかったように思います。大人になってからもわざわざ花見のためにどこかへ出かけたという記憶はありません。
 しかし、桜の季節になると決まって思い出す言葉があります。「観桜会」です。
 小さいころ、周りの大人たちが「今度の日曜日は合浦公園でカンオウカイだ!」と楽しそうに話していたのを覚えています。そして、そのカンオウカイの漢字が分からず、しかし、意味は分かり切っていて、誰にもどんな漢字を書くのか聞く機会がなかったことを思い出します。そして、漢字を知るようになるまで何年も「カンオウカイ」と聞くたびに「あのカンオウカイだ」と心に中で思っていました。
 そして、母に言われる前に薄暗い物置から重い一升瓶を台所にエッコラエッコラ運びました。母は「もっていげへ~」とカンオウカイの幹事さんに差し出すのでした。

 今日も午後に大通り公園を散歩しました。拙宅から大通り8丁目に近づくに従って遠方にピンク色に染まった樹木が1本見えてきました。ようやくかなと思いながら少しづつ近づきました。ありました。桜1本がピンク色に輝いて見えました。TV塔の方を見やると何か所かにピンク色のかたまりが見え、春到来を確信させてくれました。

 老若男女、どんな服を着て散歩に出たらよいのか迷っているふしがありありと覗える今日の大通り公園でした。
少し肌寒さを感じながらも早く春を感じたい一心で薄手の春物の人、まだまだ油断はできない、だまされはしないぞとしっかりと冬物にしがみついている人、手袋をはめ、しっかり帽子をかぶっている人など様々でした。

札幌の開花宣言2013/05/13 21:45

 昼前のTVニュースを見ていましたら、札幌の開花宣言が話題になっていました。記録によると歴代2番目に遅い桜の開花宣言のようです。今週末が桜の花の見ごろだとも話していました。

 それにしては、どうなっているの?と誰かに訊ねたくなるような寒さです。昨日と同じ時間帯に同じように大通り公園に出かけてみましたが、一気に寒さが戻ってきて閑散としていました。
 投稿をしてくださった戸田さんは千葉県成田市にお住まいなのですが「こちらは、昨日は夏が来たような暑さで閉口しました。」と。嗚呼。
 
 写真は大通り9丁目にあるコンクリート製の滑り台兼芸術的オブジェ(クジラ山)です。勇気ある若い夫婦が小さな子供たちを遊ばせていました。
いつものこの時季には大勢の子供たちの歓声が聞こえてきて大賑わいなのですが・・。こんなに寒ければコンクリートを滑り台にするのはお尻が冷たすぎるだろうと思います。

 ちなみに「クジラ山」はイサムノグチの作品ではありません。作者不詳のようです。隣にある御影石で創られた「ブラック・スライド・マントラ」はイサムノグチの作品です。

世代交代2013/05/14 23:09

自分がだんだん年をとっていることをうっかり忘れていることがあります。
 50歳代くらいまでは自分が所属している団体の会合に顔を出すと周りの人々が皆年上で自分はまだ若造だなと思っていました。ときどき「大坂さん、いくつになった?」と聞かれて、続いて「いい年代だ。しっかりやんなさいよ」と励まされたことを覚えています。
 今はそのように聞かれることはありません。近頃は僕が前述のようなことを若手に聞いて、励ます立場になっています。そんなときは自分が目の前の人の年のころには何をしていたのかなと思いだすことがあり、同時に心の中でつぶやきます。「そうか、あれからもう15年かとか20年も経ってしまったのか」と。

 今日は、久しぶりにいつもお世話になっている耳鼻科へ行きました。受付嬢はいつもの変わらない人でした。保険証や診察券を出すと「いつもの先生は病気で診察をしていません。代わりに息子さんがやっていますがいいですか」というのです。僕は「あら、先生は幾つになられましたか」というと70と少しですということでした。すぐさま僕は計算をして、じゃ、72~3かな、ということは、僕よりは5歳くらい上かと結論付けました。
 このクリニックにお世話になり始めたのは僕が50歳代の頃です。会社が近かったのと評判がすこぶる良かったので鼻の調子が悪くなると「また来ました」と言っては診察をお願いしていました。その先生が病気で引退かと思うと、自分のことは棚に上げて何かしら寂しさを感じました。
 
 診察が終わってふと掲示板を見ると世代交代の挨拶文がありました。

 写真は青森駅前で見かけた看板。

マグナムMAGNUM PHOTOS2013/05/15 23:24

 僕が1966年21歳のときにカンボジア号というフランスの客船に乗ってヨーロッパへ出かけたことは何度も書きました。その動機はいくつかありました。一つに、中学、高校、大学と外国語の成績はまるっきりだめでいつも赤点でした。僕が接した外国語は英語と、大学で専攻したフランス語でした。
 いずれもなぜか習得のきっかけをつかめずいました。しかし、いつかは外国語と正面から取り組まなければならないだろうという気はしていました。一生、外国語は不得意ですと言って逃げ回るのは窮屈だろうとも思っていました。
 僕の大学での専攻は写真ではなく文芸学でした。将来写真に携わるには文章を書けなければだめだろうと漠然と思っていたからです。そんなころに父の書棚に見つけた写真集に「裏日本」という濱谷浩の本がありました。大変感銘を受けた写真集でした。合わせて濱谷浩は「マグナムMAGNUM PHOTOS」という団体の会員で、且つ、当時は日本人の写真家ではただ一人の会員であることを知りました。
 以来、折につけてこの写真団体のことが頭から離れませんでした。

 マグナムMAGNUM PHOTOSは1947年にロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソンなどという写真家がパリで結成し、今日もその活動は続けられています。日本人としては、濱谷浩(1915年-1999年)と久保田博二(くぼたひろじ、1939年生まれ)が参加しています。僕が知る範囲では多分、世界最高の輝かしいフォトジャーナリズムを展開している団体だろうと思います。僕がそのことを知ったのは設立されてまだ20年くらいしか経っていないころでした。
 僕は強い羨望を覚えていました。そして、そのような活動をするにはやはり外国語に不自由しているようではだめだと思い込んだのです。考えてみれば自分の写真の能力も顧みず大変単細胞的で短絡的であったとは思うのですが・・。

 さて、そのマグナムMAGNUM PHOTOSですが、改めてすごい写真家を擁していると再認識をしました。偶然ですがマグナムMAGNUM PHOTOSのツイッターでSteve McCurryという写真家のことを知ったのです。 氏は膨大な量の作品を惜しげもなくWEBで見せています。僕はそれを発見して気持ちが高ぶるのを抑えることができませんでした。ポートレイトが圧倒的に多いのですがそれらの「写真力」のようなものを実感させられました。

 47年も前に知ったマグナムMAGNUM PHOTOSはいまだに僕の心の中で光り輝いています。

 まだでしたらどうぞ下記のサイトをご覧になってみてください。
Steve McCurry
http://stevemccurry.com/
MAGNUM PHOTOS
http://www.magnumphotos.com/
なお、下記のサイトからiPadなどに無料でダウンロードもできます。
https://itunes.apple.com/app/portraits-by-steve-mccurry/id589821521?mt=8

パリの食事2013/05/17 00:36

 パリで食べた典型的な内容と値段の昼食です。パリ中心部で地元の客が大半を占めるように見受けられた普通のレストランです。
食事の内容は・・
コンソメスープ
盛りのいいサラダ
スパゲッティーボロネーズあるいは蒸したサーモン
チョコレートムース
パンは好きなだけという定食
コーヒーは別勘定。

値段・・
定食が2名分で25€
グラスワイン2杯で6€
コーヒーが2杯で5.20€
税金が2種類で合計が2.98€
〆て36.20€でした。
加えて、忘れてならないのがチップです。
約5€を置きました。

 妻はいつものように魚料理を、僕は細くて長いものが好きなのでスパゲッティーボロネーズを、大変美味しくいただきました。

 参考までに・・ですが、両替すると1€は130円前後です。しかし、実際にパリで€で支払いをいろいろしてみると、僕の感覚では100円だろうと思います。

千代さんの朝日新聞記事2013/05/18 00:20

 このブログでも5回書かせていただきましたが、今日の朝日新聞デジタル版に「玉撞き屋の千代さん」の記事が載っていました。
http://tadashi.asablo.jp/blog/2013/04/24/6789487
 朝日新聞デジタル版で検索をしてみましたら2013年03月23日にも記事が掲載されていました。2回分の記事を転載させて頂きます。不都合な向きがありましたらご連をいただければ幸いです。

最後の客を「またね」と送り… 96歳、女ハスラー逝く
(朝日新聞デジタル版2013年05月17日00時47分)
http://digital.asahi.com/articles/OSK201305160051.html

【荻原千明】大阪市阿倍野区のビリヤード場・保名(やすな)倶楽部を70年間にわたり営み、その半生が舞台にもなった「浪速の女ハスラー」南川千代(ちよ、本名・千代子)さんが心不全のため死去した。96歳だった。遺志により葬儀は行わなかったが、「偲(しの)ぶ会」を25日に開く。
 千代さんは先月19日、店が開く午後2時に窓際のいつもの席に座った。1942年ごろの開店当初から磨き続けた黒檀(こくたん)のビリヤード台の傍ら。40年ぶりに来店したお客さんを夕方近く、「またね」と笑顔で送り出した後倒れた。2日後の21日午後9時29分、大阪市内の病院で息を引き取った。
 20年ほど前から包装紙を折り畳み、小さな「星」をたくさん作っていた。「亡くなったら自分の周りにまいて」と話していた。星への願いは「死ぬまで働きたい」。その通りの一生だった。星は棺(ひつぎ)に納められた。
 店は三女が切り盛りしている。偲ぶ会は25日午後3~5時、大阪市阿倍野区王子町1の11の28の保名倶楽部で。千代さんの生前の写真や映像も紹介される。

96歳、路地裏の女ハスラー 大阪、店守り70周年
(朝日新聞デジタル版2013年03月23日21時30分)
http://digital.asahi.com/articles/OSK201303230129.html

【湊彬子】阪堺電気軌道の路面電車の音が響く大阪市阿倍野区の路地裏に、小さなビリヤード場がある。大正時代の建築と言われる洋館で営業する「保名(やすな)倶楽部」。店主の南川千代(ちよ)さんは96歳。気丈な「女性ハスラー」として一代で店を育て、昨年、70周年を迎えた。一時寝たきりになったが、家族や常連客の支えで復帰し、店を見守る。
 「ひとーつ」「ふたーつ」。プレーを見つめては審判のように点数をつぶやく。店内には磨きこまれたビリヤード台が四つ。「千代さん」と呼ばれる小柄な店主の定位置は、窓際の台のそばの木製の椅子だ。
 昨年12月にあった70周年のお祝い。30代から80代まで30人ほどの常連客が店に集まった。台の上に布を敷き、食事を囲んだ。その日、皆で試合をしたが、千代さんがキュー(突き棒)を握ることはなかった。
 2010年の夏、千代さんは夜、トイレに行こうとして廊下で転び、頭を打ち入院した。硬膜下血腫と診断された。年末に退院したが、店の2階の自宅で寝たきりになった。
 「もう十分生きました」と、食事も受け付けなくなった。そんな姿に、同居する三女の平田範子(のりこ)さん(65)の次女で、孫娘の加藤日登美(ひとみ)さん(35)が大声で耳元に話しかけた。「千代さんの死に方は、こんなんと違うでしょ。働きながら死にたい、って言ってたじゃない」
 千代さんが何を考えたかは分からない。でも、その言葉をきっかけに、震えながら体を起こした。リハビリを重ね、歩けるようになった。約1年後、店に戻った。こぼれ落ちていく記憶が多く、会話もままならなくなったが、点数の数え方だけは忘れていなかった。
 10代で神戸から大阪へ。女給をしていたキャバレーで、船場の洋傘問屋の若旦那と恋に落ち、一緒に暮らすようになった。妻がいたことを後で知った。
 時代は戦争に向かう。男は兵隊に取られ、命を失うかもしれない。生まれた2人の娘を自分の力で養えるようにと、太平洋戦争が開戦した翌年の1942年、店を開いた。26歳の時だ。
 腕を磨き、手だれの男性客たちに競り勝って店を軌道に乗せた。正式に結婚し、1男3女を育てた。いまは8人の孫と11人のひ孫がいる。
 がん闘病で入退院を繰り返した夫を71年にみとったためか、70歳を過ぎたころから千代さんは「死ぬまで働きたい。玉を突きながら死んだら一番いい」と話すようになった。
 大阪市東住吉区の植田茂さん(65)は大学時代から店に通う。若いころに見た千代さんのしなやかなキューさばきを覚えている。でも、千代さんはいま、玉を突くことができない。
 千代さんを支え、代わって店を切り盛りするのは娘の範子さんだ。お客さんに、いまの千代さんの姿を見せない方がいいのかな、とも考えた。でも、千代さんは「店に出たい」と言う。「ありのままの千代さんを見てほしい。苦労しはった。最後に、いい人生やった、と思ってほしい」
 今日も千代さんは、午後2時の開店を控えたビリヤード場の窓際に腰掛け、お客さんを待っている。


 余談ですが、写真の左の記事の写真2点の中の千代さんの写真は僕が2008年に撮らせていただいたものです。

自由になった人2013/05/19 00:12

 多くの場合、人は自意識のようなものを持っているのだろうと思います。他の動物のことは分かりませんが、人間は何らかの形において他者を意識し、そこに社会性のようなものを発揮するのではないでしょうか。
 そしてその社会性の中には、自分のことを良く見せたいとか、自分は大きな存在であることを知ってほしいとかの、他者との比較をしながらの行動があるのだろうと思います。
 衣類をまとい、本当の自分を覆い隠して、動物的な欲求を悟られないように周りをきょろきょろするのも自意識の所以なのだろうと思います。
 そんなことを考えると人が生きることは、すごくわずらわしい、面倒なことのような気がします。しかし、この写真の下部で歩道に小さな器を前にして座り込んで人は、多分、そのような面倒なことと決別をし、自由を獲得したのかもしれません。
 ちなみに、背景に写っている建物は世界有数の金融機関の一つです。(今年は例外的に肌寒い日々が続いていたパリの4月です。)

教会でしばしの休憩2013/05/19 22:52

 今回旅行したパリにしてもアヌシーにしても、あるいは過去に旅をしたロンドンやニューヨークでも街中を長いこと歩き廻っていて教会を見つけるとほっとします。
 多分、他の都市でも同じだろうとは思うのですが、カソリックでもプロテスタントでもドアは常に解放されていて旅行者であっても祈りを捧げることができます。僕たちは数時間も歩いた後に教会を見つけると必ずと言っていいくらい立ち寄ります。

 石造りの重厚な建物はそれ自体がある種の安堵感を与えてくれます。重いドアを押して中に入るとまずその匂いに何世代も受け継がれてきた教会の歴史を感じることができます。合わせて、静寂さが、たった今まで歩き廻っていた街中とは異なり、知らない街を旅しているという緊張感をしばし忘れさせて気持ちも穏やかになるような気がします。

 石でできた通路の床の中央は100年、200年の間の人々の歴史を記憶するかのようにすり減っています。コツンコツンとその石の床を蹴る音や絹ずれの音を聞いていると今に存在する自分のちっぽけさを否応なしに感じます。

 曜日や時間帯によっては礼拝が行われていたり、パイプオルガンの練習か演奏を聴くこともできます。
 僕たちは旅の安全や家族、友人知人の健康を祈ります。そして、快適とは言えない固い木製のベンチでしばし休んで、また、大好きな俗世界に戻ります。
 
 写真はリヨン駅近くで立ち寄った教会。

発想の違い2013/05/20 23:38

 旅行をして面白いとか楽しいと思うことは人それぞれあると思います。日本では見ることができない景色であったり、珍しい食べ物であったりと様々だろうと思います。
 僕が最も興味がそそられるのは国民性とか民族固有の考え方が何かの拍子に見えたり感じられたりする時です。無論、なるほどと思う時もありますがその逆もあります。どっちにしろ、そういうのを目撃する度に、なけなしの知識を総動員して「なぜあんなふうに考えるのだろうか」とか「あの発想はどこから来てきているのだろうか」などと思いを巡らします。

 21歳のときに初めて船に乗ってヨーロッパへ旅行をしました。今ではそんな船旅をすることは贅沢の極みだろうと思いますが、当時は飛行機で旅行することは百万長者でなければできないことでした。
 僕は、週に一度はベッドのシーツが真っ白なしわ一つない清潔なのに交換され、日に4食と2回のおやつ代が含まれて、ピッタリ一か月間船に揺られて10万円という船底の船室の旅をしたことがあります。1966年の年末でした。
 横浜を出て初めての寄港地は香港でした。無論、見るものも聞こえてくるものも、その街の匂いすら初めての体験でした。買い物をしてもお釣りの数え方が違うとか、値札にかかれている価格は目安程度で価格交渉をして初めて本当の値段が分かるなどは初級クラスのことだと思うのですが、異文化体験の始まりでした。

 パリから4時間弱電車に乗ったところにアヌシーという街があります。写真はその街中を走っている2連結のバスの車内です。座席が設置されている床は平面ではありません。乗り降りを容易くするために低床式になっているので、統一された高さの床面に整然と椅子を並べるということはできません。
 乗降口は路面から一段だけの高さになっています。乳母車を押している人や足の弱い人などには乗り降りが大変楽です。タイヤが収まっている床は他の部分に比べると格段に高い位置にあります。おのずと椅子の位置も大変に高く、大げさではなくよじ登ることができるのは元気な人だけです。

 札幌ではあいにくこのようなバスは運行されていないと思います。東京では乗ったことがありますがここまで徹底して、設計の優先順位を床の平面性よりも乗降の利便性に求めたのはないような気がします。

 良し悪し、賛成か不賛成かは別として、街を散歩しているとその国や民族の優先順位のつけ方の特徴が見えることがしばしばあります。
僕は自分の見慣れたすすき野周辺をちょっと斜に構えて眺め、行政の街づくりの優先順位や商売をしている店の優先順位を探って楽しんでいます。
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