「晩春」の父娘 ― 2013/03/06 23:33
映像として納得がゆかないのに次の場面があります。旅館での朝のことです。父娘が洗面所に立っています。父の笠智衆は歯を磨いています。娘の原節子は父のために口をゆすぐ水の入ったグラスを手渡します。メイドでもそこまではしないと思うのですが、僕はこの場面を観て「そんな馬鹿な」と思いました。それとも当時、北鎌倉に住むような裕福な家庭では普通であったのでしょうか。
小津安二郎の作品は内外のいろいろな映画作家に影響を与えているといわれています。しかし、上記のような場面は、いかにそれが当時の日本文化であるといわれても納得はいかないだろうと思います。では小津安二郎の作品の何が映画人を引きつけるのか、と考えてしまいます。
僕は「物語」ではなく低いアングルから撮影された映像や、カメラが据え置きにされて静止画像のようなフレームの中を登場人物が動く撮影の仕方などの手法に関心が寄せられているのではないかと思うのです。少なくても僕には、作品全体に流れる小津安二郎の「思想」は男尊女卑とも思えるのです。あるいは僕には理解できていない「何か」があるのか。
「お父さんはもう57歳だ。もう人生は終わりなんだよ」という台詞を聞くとやはり64年前と今の時代の変化を感じます。
コメント
_ 市村隆行 ― 2013/03/09 23:52
_ 大坂忠 ― 2013/03/10 09:51
こんにちは。
>それが美しいとはとても思えないからです。
多分、ある種の思考回路が年月をかけて社会の中で成熟し、形を成した結果、ある種の美しさが発せられるのではないかと思います。それがわが民族の得意とする様式美の高い次元での完成形への希求であろうかと思います。
街角の豆腐屋、柔道、華道、茶道しかり、天皇制しかり。
すべからく「本物」とは様式美の完成度合を指すのではないかと思っています。そして、わが民族はそれらの「様式・型」が大好きなのです。もしかしたら小津安二郎の作品は金太郎あめなのかもしれません。
_ 市村隆行 ― 2013/03/10 20:35
自分の中の偏見とかがあるために、そこら辺が素直に受け入れられないのかもしれないです。
_ 大坂忠 ― 2013/03/11 21:55
まあ、そういうことが好きな人たちなのでしょうね。
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その「美しい家族像」が、隷属関係のようにしか見えないし、それが美しいとはとても思えないからです。
高く評価されているのだから、俗人には理解できない何かがあるのからかもしれませんが、俗人である私にはどうも推察不能です。