謹賀新年 ブレ・ボケの表現2011/01/01 00:17

謹賀新年
 旧年は僕のブログに大勢の方が訪れてくださいました。12月29日あたりから一日のヒット数が急激に上がり、100人以上の方々に見ていただいたようです。びっくりしています。本当にありがとうございました。

 2009年3月に開設したブログですので新年を迎えるの2度目の経験です。http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/03/が最初のページでした。

 何を書こうかと考えているうちに、近所のお寺の鐘の音が聞こえてきました。僕はキリスト教徒ですから寺の鐘の音よりも教会の鐘の音の方がありがたみが大きいのですがこの際、贅沢はいえません。何せ、鐘楼を持っている教会は札幌にはないように思いますから。

 僕にとっての2010年はそれなりに充実していました。
 住居をすすき野界隈に移し、雪はねの心配がなくなりました。また、日に5~6千歩の運動目標も比較的楽に達成できるようになりました。何しろ毎日散歩をしても変化が激しいこの界隈の風景に飽きないのです。

 写真の方では念願の「遠友塾」の個展を3都市で催すことが決まりました。スケジュールは下記の通りです。新しいカレンダーに「印」を付けていただければ嬉しく思います。
 もっとも僕の方の準備は全く進んでいません。どのような額装にするか、安価にA2サイズのプリントをやってくれるラボもまだ探していません。
何しろCanonのプリンターと用紙でなければならないのでチョッと難儀です。お知恵がありましたらお教えください。

<大坂忠写真展「札幌遠友塾=自主夜間中学=」>
http://www.enyujuku.com/index.shtml
キヤノンギャラリー札幌  2011.7.28~2011.8.9
キヤノンギャラリー銀座  2011.6.23~2011.6.29
キヤノンギャラリー梅田  2011.8.18~2011.8.24
http://cweb.canon.jp/gallery/ginza/index.html
  
 加えて、年末にはニューヨーク旅行を実現させることが出来ました。ペンタックスフォーラム新宿での個展の公募に応募できるだけの点数の作品が撮れたような気がしています。捕らぬ狸の皮算用とはこのことですね。
 まあ、選考されたらここで報告をします。

 閑話休題
 下記は文字通り、僕とは違って毎日精力的に更新をなさっているnakkyさんのブログです。
 http://regulus.exblog.jp/15682315/
 その中で下記のことが話題になっていました。

 「カメラのAF化が進化して、なかなかボケ写真を目にすることが少なくなりましたよね。あと、高感度化と手ブレ防止も進んで、これまたブレ写真も目にすることがなくなってきました。そういう意味で、ブレ・ボケ写真というのはこれから「ひとつの表現手段」として案外脚光を浴びていく可能性もありえる「かも」知れませんね。」

 そんなことで新年とは関係がありませんがNYで撮影した写真を掲載します。星条旗の動きを撮りたく、スローシャッターを試みました。
ご参考までにデータを記しておきます。
露出時間 : 1/1.7秒
レンズF値 : F16.0
ISO感度 : 3200

 と言うわけで、改めて今年も、更新の不真面目な僕のブログをどうぞよろしくお願い申し上げます。

NY旅行の写真の整理2011/01/04 16:34

 NY旅行で撮った写真の整理をやっています。
 僕が今回の旅行で使った機材はPentax K-5と18ー135mmのズームレンズ一本です。このレンズの発売が旅行へ出発する直前でした。ピント調整が必要なら旅行には役に立たないなと思いながら購入しました。その面では少なからず不安がありました。幸い、ピントの具合がよく効能書きどおりに機能してくれたのは幸いでした。
 予備のカメラとしてはキヤノンG10を持ちました。
 PCは小型のノートPC+外付けハードデスクでした。

 毎日、ホテルに戻るとカメラからメデアを取り出し、データーを外付けハードデスクに移します。終ったらその日の出来具合をJpegファイルで確認をします。

 ここで第1回目の失望と自信に遭遇します。こんなはずじゃなかったとか、これは使えそうだなとかを頭の中でゴチャゴチャ云いながら明日への構想を練ります。練っても全然役に立たないのですが、そりあえず考えます。
 外食の場合にはめったにレストランにホテルから出直すことはせず、食べ終えてからホテルに戻ります。テイクアウトを買ってホテルの部屋で食べるときもあります。

 今回のホテルはNew York's Hotel Pennsylvania. ニューヨークス ホテル ペンシルバニアでした。残念ながら部屋ではインターネット接続が出来ず、ロビーで1時間3ドルをクレジットカードで支払ってつなげるというやり方でした。仕方が無いので夕飯を終えてからブログの記事を書いて、その日に使う写真をリサイズしてという準備をしてからロビーに下りてゆきました。

 寝る前にはRAWファイルをJpegに変換する「現像」をセットしてベッドにもぐりこみます。ノートPCが遅いせいもありますが3~4時間は必要です。夜中に目が覚めましたら進行状況をチェックします。
 この作業をしておかないと帰りの飛行機の中で次の作業が出来ません。特に今回の飛行機の席ではAC電源が使えることが分かっていましたので大事な作業でした。10時間くらいは集中して、使えそうな写真を選び、別ファイルを作りました。家に帰ってからの作業を手早く行うには機内の作業は必須です。

 そんなことで、帰ってから改めて機内で作った使えそうな写真のファイルを見直し、再現像が必要なのはそれを行い、様々な調整をしてワークプリントを作りました。
 僕の場合にはA5サイズのワークプリントを作ります。その作業が夕べ終えました。合計約100枚になりました。その中からまた選んで40点くらいまで絞る予定です。

 写真はワークプリントです。このプリントに手垢が付くくらい、いろいろ試みながら構成を考えます。文章と同じでキーワードなるキーピクチャーをどれにするか、起承転結の流れをどうするかなどをひとりでぶつぶつ云いながらやるのです。
 A4サイズにプリントするにはまだまだ時間が掛かりそうです。

本格的な冬将軍2011/01/06 23:18

 今日は終日、降ったり止んだりしながら、どこもかしこも真っ白になりました。

 旅行から戻ってから数日後に風邪を引きました。いくつかの予定を全部取り消し家で静かにしていました。ようやく今日当たりから動けるようになったので、すすき野駅周辺まで昼食を兼ねて出かけました。いつもの一眼レフカメラを持って出かけるほどのエネルギーがありませんでしたので超小型のRICHO GR2をポケットに入れて出ました。
 いつも言われることですが雨降りの写真は雨降りでないと撮れません。吹雪の写真も同様に吹雪いていませんと撮れません。と自分に言い聞かせて、どんな天気であってもカメラを持ち歩くように心がけています。

 NY滞在中にも一日くらいは雪が降るはずだったんのですが残念ながら冷え込みだけでした。
 聞くところによるとNYではタイヤを交換することは無いそうです。通年夏タイヤで済ませるとききました。雪が降ると大量の塩をまいて雪を溶かすそうです。TVニュースで観るとときどき大雪に見舞われたNYが報道されますが、塩をまくことに何のちゅうちょも無く大量にまくようです。正確には「塩化カルシュウム」や「塩化ナトリウム」らしいのですが・・。

映画「ルイーサ」2011/01/11 20:36

 妻の誘いで表題の映画を観ました。アルゼンチンのブエノスアイレスが舞台です。
http://www.youtube.com/watch?v=Za5kr9hvK14
 僕は限りなく、閉塞感に襲われました。
 映画の途中、僕の頭の上に何かが覆いかぶさって来るような、逃げ出したいけれど体が思うようにならない、金縛りにでも会った様な感じがしました。しかし、その感じははじめてのことではなく今までに何度も経験をしたことのある、感じでした。
 
 映画の中年の女主人公ルイーサは日に2つの仕事をして何とか生活をしていました。しかし、ある日、一度に2つの仕事を解雇されてしまいます。そんな中でペットの猫は死に、滞納のために電気はとめられ途方にくれます。

 家賃を払えなくなり家主さんに待ってくれる様にお願いをしたり、電気代を払えなくヒーターが使えず寒い部屋にぶるぶる震えていたり、アルバイト探しのバス賃のために昼食を節約したりを経験したのは、ルイーサのブエノスアイレスではなくブライトンと言うイギリス南部の小さな街でした。
 
 青緑色のようなペンキが塗られたルイーサのアパートは限りなく寂寥感に支配されていました。まだ薄暗い早朝にバスに乗り込む描写は僕を一気に貧乏のどん底にいたころのブライトンに引き戻しました。

 あれからもう40年以上もの時間がたったのに・・。

 写真はタイムズスクエアー付近

僕の45年間ー572011/01/20 19:43

 しばらく「僕の45年間」を書けずにいましたが、また、少しづつ、思い出しながら書きたいと思います。
 
 前回は「僕の45年間ー56」― 2010/09/17 21:32で終っていました。念のために下記にURLを記しておきます。
http://tadashi.asablo.jp/blog/2010/09/

 ブラッセルの駅に着いたのは昼すぎころだったと思います。路面電車に乗って目的のユースホステルへ向かいました。曇り空でパリに負けずに寒かったのを覚えています。ユースホステルはじきに見つかりました。ドアを開けてロビーに入りました。新鮮な木の香りが漂っていました。空腹と寒さで疲れ果てていました。重く感じ始めていたリュックサックとカメラ鞄を肩から下ろし、誰も居ないロビーに向かって、思い切ってハローと声を出しました。しばらくは何の反応もありませんでした。広々としたロビーの何処からか人が現れるのを期待してキョロキョロと見回しました。その建物はログハウスでした。何処もかしこも太い丸太で組まれ、ロビーの天井は吹き抜けで開放感に満ちていました。今でこそログハウスという言葉を知っていますが当時は見たことも、無論、中に入ったこともありませんでした。心身ともに疲れ果てていた僕らには木の香りがとても心地よく思えました。
 しばらくすると奥のドアが開き、女性が出てきました。後ろには3歳くらいの女の子が母親らしきその女性のスカートにつかまり顔をのぞかせていました。僕は早速に用意していたユースホステルの会員証をみせ、泊まりたい旨を伝えました。返ってきた言葉はフランス語でした。改めて、あ、そうだ、ここはフランス語だ思いながら「ウイ、ダコール」の返事に安堵しました。僕は幸いにもユースホステル規格のシーツを持っていましたが高橋さんは持っていなかったのでそれを借りるのに少し余分に費用がかかりました。
 
 女性は何やらいろいろと説明をしてくれましたが、分かったことは混んでいるので1泊しか泊まれないということ、ベッドが使えるのは夕方5時過ぎからだということぐらいでした。一休みをしたいとは思ったもののかなわず、僕らは荷物を預けてそそくさとまた、寒空の中に出ました。泊まれるところを確保できた安堵感の後には、強い空腹感が襲ってきました。安いキャフェを探して何かを食べたいと、そればかりを考えていました。結局、ユースホステル付近には何も無く、再度電車に乗って駅前に出て食事にありつきました。
  街をキョロキョロしながら、どこかのレストランのドアや窓に「皿洗い募集」の張り紙がないかと思いながらほっつき歩いて夕方まで時間をつぶしました。ユースホステルを出る前にフランス語で「皿洗い募集」の言葉を手帳に書いてもらったものの成果無しでした。

 ベッドに入る前に高橋さんと相談をし、明日はアムステルダムを目指すことにしました。アムステルダムでは本気でアルバイトを探そうよ、と互いに言いながら木の香りに包まれてバタンキューでした。

 写真は2005年12月。一般鉄道のブラッセル駅の地下に路面電車の駅がありました。ここだけが半分地下鉄のようになっていました。

僕の45年間ー582011/01/20 20:31

  翌日、ヒッチハイクをあきらめて電車でアムステルダムへ向かいました。電車賃を節約するためにパリを出るときに、ヒッチハイクでと思ってはみたのですがヨーロッパの1月下旬の寒さには耐えられませんでした。
アムステルダム中央駅に降り立ち、さて、と思いながら駅前広場を見渡しました。そこには予想に反して路面電車の路線がたくさんありました。やはり、僕の持っていたユースホステルガイドブックを頼りに乗るべき電車を、何人もの通行人に同じ事を訊ねながら探しました。
 
 アムステルダムの最初の印象は英語が通じる、でした。僕の下手な英語でもフランス語よりは用が足せました。それだけでも安心感に満たされ、同じ寒空でしたがアムステルダムが好きになりました。
 
 ユースホステルにたどり着いたのは夕方でした。大勢の若者たちがロビーにたむろしていました。ある者たちはリュックサックを広げて荷物の整理をし、ある者たちは大きな笑い声を出しながらコーヒーを飲んで談笑をしていました。僕は、ユースはこうでなくっちゃと勝手に決め込んでその雰囲気が好きになりました。

 受付けへ行って、事前に同行の高橋さんと決めていたように三泊を申し込みました。しかし、あっさりと一泊しか認めてもらえませんでした。一泊では仕事探しは無理と思い下手な英語でもう一泊をさせてくださいと懸命に頼みました。しかし、明日の朝にもう一度申しこむように言われました。可能性は?と食い下がりました。フランス語ではとても出来ないことでしたが、高橋さんと僕は知っている限りの単語を使って交互に、少なくてもこっちの必死さを訴えることは出来ました。

 まずは情報集をしなければと思い、ロビーを見回しましたが日本人らしき人は居ませんでした。
 ユースホステルを出てさっき降りた路面電車の停留場に向かって歩きました。空は相変らずどんよりと鉛色の空模様でした。電車に乗るたびに、食事をするたびに懐具合はさびしくなりました。アルバイトを探さなければ本当に餓死をするかもしれないという恐怖感は日増しに強くなっていました。
  
 高橋さんは電話帳で日本レストランを探そうと言いました。停留場の近くまで来たときに電話ボックスを見つけました。丁度、若い女性が電話をかけ終わってドアを開けて出てきたところでした。アジア人の顔でした。僕らは思わず、あの~、日本の方ですか?と話しかけてしまいました。

写真は2008年12月。パリからアムステルダムへの電車

僕の45年間ー592011/01/21 20:40

 午後のアムステルダムは曇ったり小雨だったり、どっちにしても元気が出るような天気ではありませんでした。僕らの顔には少しずつ悲壮感のようなものが漂い始めていたのかもしれません。その女性は僕らの顔を見て、どうしました?と同情的に聞き返してくれたのです。21歳の僕の目には30歳くらいに見えましたがもっと大人だったかもしれません。電話ボックスの脇で立ち話を始めました。僕たちがアルバイトを探さないと餓死してしまいそうだと必死で伝えました。
 電話ボックスは日本のよりは大きかったと思います。小雨模様になってきたので窮屈でしたが3人で中に入って相談を始めました。
 その女性は「何かないかしら」と持っていた新聞を広げました。「オランダ語は分かるんですか」と僕。「はい、勉強をしていますから」とその女性は紙面から目を離さず応えました。僕と高橋さんは息をこらして女性の視線を追っていました。じきに「シックという髭剃りのかみそりの会社、知っていますか」「はい、知っています」「そこの工場がアルバイトを募集しています。電話で聞いてみましょうか」

 狭い電話ボックスの中には、アムステルダムの事情に詳しい人と知り合えたことの安堵感と、もしかしたらアルバイトが見つかるかもしれないと言う期待感に満たされていました。

 当時の円は1ドル360円で固定されていました。また、日本政府のドルの保有額には限度があって日本の家族から送金をしてもらうなどと言うことは現実的では有りませんでした。したがって、自分で働いて稼がなければ単純に生きては行けないのでした。日本から持ち出した手持ちのお金は、いくら注意深く支出を抑えても減る一方でした。パリでは両替商の詐欺に合い100ドルくらいを損していました。日本円の持ち出しは2万円までが許可されていましたから、それは別口でパスポートと一緒に首から下げた袋に入れていました。いつも頭の中ではこの2万円に手をつけなければならないことになったら最寄りの大使館に相談に行こうと決心をしていました。

 彼女は財布から小銭を取り出してダイヤルを回しました。僕はその指先をじっと見詰めていました。受話器から先方の声がしました。内容は全く見当が付きませんでした。
「すぐ来なさい、って。行く?」と受話器に手をおいて僕らに言いました。無論、僕らは承諾をしました。高橋さんと「行こうぜ」と目で確かめ合いました。

 
 写真は2008年11月。
 アムステルダムの道路は中央から路面電車、自動車道、自転車道、そして歩道と成っています。僕がうっかり自転車道を歩いていたときにはサイクリストに思いっきり怒鳴られました。皆、レースでもしているようなスピードで走っています。

僕の45年間ー602011/01/22 09:35

 僕らは電話ボックスを出て女性に教えてもらった道順を確かめながら大きな道路へ出ました。車は猛スピードで水しぶきを上げて走っていました。こんなところでヒッチハイクが出来るのだろうかと心配になりました。冷たい雨が降ったり止んだりしていました。
  今朝までの僕らの気持ちは息苦しさに満ちていました。青空はここ数日顔を出すことが無く、鉛色の低い雲がどんより覆いかぶさっていました。出来るだけ早くアルバイトを探し、手持ち資金が減ることを抑えなければという気持ちだけが先行していました。
  シック工場までヒッチハイクでどれくらいの時間が掛かるかは知るよしもありませんでした。僕らは車の水しぶきを浴びながら懸命に路肩を歩きながら右手の親指を突き出し、ひたすら止まってくれる車があることを念じました。
  アムステルダムの1月下旬、雨模様の夕方はドンドン薄暗くなり始めていました。こんなことをしていて大丈夫なのかという思いが片隅にあり、一方では今はこれしか望みは無いという切羽詰った気持ちが入り混じっていました。

  僕は何故かアメリカへ旅行をしようとは考えもしませんでした。ミッキー安川の本はアメリカでの体験記でしたから、僕もアメリカのことを考えても良かったと思うのですが全く頭にありませんでした。一つにはフランス語への興味があったことがヨーロッパを選んだ理由かもしれないと、後々思いました。大学ではじめてフランス語の音に接し、何故か引かれたのを覚えています。それなら、と自分では思うのです。どうしてちゃんと勉強をしないのだろうかと。僕の興味の程度はその程度かと、自虐的に決め付け、同じ頭で英語も勉強しなければという二兎を追うような思いに駆られて、「お前は何をどうしたいんだ」「結局は何も達成しないで日本に帰るつもりか」と小雨の中を歩きながらの頭の中が混乱をし始めていました。

  高橋さんは相変らず元気よく親指を挙げながら僕の前を歩いていました。一時間以上は歩いたと思います。気持ちが萎えはじめた頃でした。小型のトラックが僕らを通り過ぎたなと思ったら、前方の路肩に止まってくれたのです。僕らはそのトラックめがけて走り出しました。電話ボックスの日本女性が渡してくれた新聞の募集欄の切り抜きをトラックの主に見せました。僕はそのトラックの主の顔の表情を最大限の注意を持って読み取ろうとしていました。すぐに「乗れ!」という合図に思えたのでそそくさと乗り込みました。


 写真は2008年11月。運河と自転車の街でした。

僕の45年間ー612011/01/22 20:42

 トラックの運転手さんはあまり英語を話しませんでした。しかし、新聞の求人欄はしっかり読んでくれたように思えたので行き先についてはあまり心配することはありませんでした。どれくらいの時間乗せてもらったか記憶にありません。覚えているのは走行中、ずっとワイパーが忙しく動いていたことです。
 前方に工場らしき建物が幾つも見え初めてもうそろそろかなと思っているとトラックは止まりました。守衛のいる小屋を指して、何やら言われました。僕らは降りろと言われているように思え、ここだなと合点しました。
Thank you, thank youと礼を言いました。トラックはじきに猛スピードで走り去りました。僕らは守衛さんに新聞の切抜きを見せました。雨で濡れた手で大事に持っていたので切り抜きはグシャグシャになっていました。
 
 建物の中に案内され、来客用の部屋に通されました。緊張していました。日本での経験だったら履歴書を最初に出して話しを聞くのはそれからなのでしょうが、何の準備もない、住所不定の外国人旅行者を本当に雇ってくれるのか心配でした。高橋さんも緊張のせいかあまり話しませんでした。

 若い女性が入ってきて一枚の書類を差し出し、僕らに書くように言いながらボールペンを渡してくれました。しかし、僕らの目には明らかに英語ではないことが分かりました。困惑した僕らの顔を見た女性は「ネーム」といって書くところを指差しました。僕たちは名前だけを書きました。彼女は書類を持って出てゆきました。

 じきに背の高いスーツ姿の男性が現れました。その人に比べて僕らは濡れ鼠のような格好でした。我ながらみすぼらしく感じました。
 男性は手元のメモをと僕らの顔を2度ほど見比べて話し始めました。幸い英語でしたから助かったのですが、注意深く聞くと「電話で問い合わせをしたのは女性か?」と言っているようでした。僕らは「イエス」と答えました。男性は「あ、そうか」とでも言っているようで軽く笑い出しました。

 外国語は当たり前のことですが、分かったつもりの範囲しか分からないもので、分かっていないところは永遠に、分からなかったことに気がつかないものです。僕ら二人分の力を合わせても英語力には限界がありました。互いに顔を見合わせながら日本語で分かったことを確認しました。男性係員の話の内容を総合し、「分かりました」といって立ち上がるのに5分もかかりませんでした。

 写真は2008年11月。アムステルダム中央駅の駅前通り。
 何故かアムステルダムへ行くたびに雨に当たります。

僕の45年間ー622011/01/22 23:53

 守衛さんに「Thank you」といって門を出ました。幸い雨は上がっていましたが外はもう暗くなっていました。僕らはブルブルッと震えを覚えました。さっき来た幹線道路をめがけてしょぼしょぼと歩き始めました。

 シックの工場では日本人女性2人がアルバイトを探していると理解していたらしく、男が現れてびっくりしたようでした。僕らもそれが分かったときには噴出してしまいました。
 電話をしてくれた日本人女性に事の顛末を知らせようと思ってみたものの、浅はかなことに名前や電話番号を聞くことすらせずに別れたのでした。一緒に笑えたのにと思うと今でも残念なことです。

 どのようにしてユースホステルまで戻ったのか記憶がはっきりしません。
翌朝、目が覚めると同時に受付に飛んでゆきました。もう一泊をお願いするためです。しかし、あっさりと断られました。予約で一杯だという事でした。仕方がありません。荷物をまとめながら、夕方までアルバイトを探して見つからなかったらハンブルグを目指そうと決めました。

 ユースホステルの受付で日本のレストランのある地域と行き方を教えてもらいました。言葉の能力からして皿洗いの仕事しかないであろうと言うことは覚悟をしていました。何軒か飛び込みで仕事を探しましたが芳しくはありませんでした。そのようなレストランで働いていた若い人たちから別の店を紹介してもらったりもしました。中華料理店をも試みました。しかし、話を総合するとアムステルダムで仕事探しをすることは難しそうでした。
 昼時になって大きな通りに出ました。屋台で丸いパンにロースとビーフをはさんだサンドイッチを1つとコーヒーを買い公園のにベンチに二人で腰を掛けて昼飯の足しにしました。それは素朴な味で極上の昼食だと思えました。感動を覚えました。今でもアムステルダムへ行くと屋台の店が無いか探してしまいます。もっとも飢餓状態の当時の僕らには何を食べても最高にうまかったのですが。
 いろいろな日本人に会う事は出来ました。その人々にデュッセルドルフの様子を尋ねました。「あそこだったら仕事があるだろう」という楽観的な情報と「時期が悪いよ。冬だから客が少ないし、今の時期に仕事をやめて旅行に出る日本人はいないから」というのが大方の反応でした。
 ここでの職探しは無理だろうという雰囲気に少しずつ押されてあきらめのムードになってきていました。


 写真は2008年11月。アムステルダム中央駅のプラットホーム。
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