僕の45年間ー522010/09/02 20:53

 僕は毎日、日に2度3度とモンマルトルの丘とアベスホテルを往復しました。せっかくパリまで来ているのだからあちこち観て歩けよという内側の声もありましたが、電車賃の節約のこともありあまりしませんでした。
 今と違って足腰はすこぶる丈夫でした。朝10時前には一回目の「登山」をして、昼ころまで居ました。朝のテアトル広場は閑散としていて、無論どこのキャフェも開いていませんし、観光客もいません。一月の冷たい空気の中で何百年もの間踏まれ続けた10センチか15センチ四方の石畳の一つ一つは色も減り具合も違っていて、それぞれがそれぞれの違った物語を語りかけているようでした。

 僕は中村さんが「出勤」して来ると目ざとく見つけてイーゼルを立てたり、売り物の油彩の作品を並べたりして手伝いました。彼はジタンに火をつけて「今日は売れるかなァ」とため息をつきながら煙を吐き出しました。そして、僕を開店したばかりの何時ものキャフェに誘ってくれました。
昼近くにはいったん丘を下りてホテルへ戻り、途中で買ったバケットにバターを塗ってミネラルウオーターで流し込みました。
しかし、こんなことを毎日していても何にもならないし、第一、時々りんごを買って食べる程度じゃ野菜不足になってしまうと思いはじめました。

 一月の下旬、テアトル広場で僕よりも背丈低い、白い上下を着た日本人男性と会いました。高橋さんといいました。彼はケープタウンから来たと言いました。日本の週刊誌と契約をしている写真家であった、と過去形で話してくれました。それだけを聞いても写真家志望の僕には「すごいなァ」と思えたのですが、日がたつにつれて彼の話は膨らんでゆきました。彼も他にやることや行くところがないという感じで、僕と同じようにテアトル広場へ「出勤」してきました。
 「大坂さん、ここにずっと居るつもり?」「金、もつの?」と僕に話しかけてきました。僕は正直に「いや、お金、ありません。何かのアルバイトがないか考えているところです」と答えました。
「俺さ、ケープタウンで機材も金も全部、無くしてさ」
「どうしたんですか」
「女、女に気に入りられてさ、追っかけられて、怖くなって、部屋に全部おいて逃げてきた」と一気にその顛末を話してくれました。
 当時の僕の南アフリカについての知識はほぼ皆無でした。


テアトル広場 2004年12月

僕の45年間ー532010/09/06 15:25

 高橋さんを追い掛け回したという女性は、仕事の助手を務めてくれた地元出身の大柄な黒人で、何とかしてアフリカを出たいと願っていたのだそうです。一緒に生活をしてはいたものの、高橋さんは結婚なんてさらさら興味がないと言い続けたそうです。しかし、ある日、仕事に出かける朝、高橋さんは何かしら、尋常でない決意をその女性に感じたのだそうです。ちょうどその日は契約仕事が終わる日でもあったので高橋さんはその女性から逃れようとケープタウンを離れる決心をして、最後の取材が終わるや否やパリ行きの飛行機に乗ったと話してくれました。
「で、機材はどうしたんですか」と僕。
「アパートに残してきたのが少し。後はケープタウンでぜ~んぶ、うっぱらったよ。それで飛行機賃と残りが少しさ」

 「ところでさ、大坂さん、これからどうするの」「俺はバイト探しなきゃ」と言いながら、「パリの雰囲気はいいねェ、やはり。アパルトヘイトは疲れるよ。刺激的だけどね」
僕は自分の経済状態をはっきり話し、稼がなければならないことを伝えました。

 しかし、僕は南アフリカの様子が刺激的でした。何の知識もありませんでしたが、何故アパルトヘイトのような差別が今の時代にもあるのか知りたくなりました。
 後年、「遠い夜明け(原題:Cry Freedom)1987年製作」という映画作品を見たときには自分の無知さ加減や不勉強さを恥じました。
差別される黒人、黒人を差別する南アフリカ生まれの白人、南アフリカ生まれの白人を差別する西欧生まれの白人という図式すら見えていませんでした。加えて白人ではないが経済的成功者である日本人が「名誉白人」として白人気取りをしていることの貧相さなどが分かるにつけて、自分自身に強い憤りを感じました。

 高橋さんに会う数日前に、僕はある出来事を経験していました。ある絵描きさんから闇でドルを両替すると銀行の倍近くの率でフランを手に入れることができると聞いたのでした。僕はアルバイト先は見つからず、かといって節約にはもう限界という思いがあって、少しでも得になる両替ならやってみようかと、危険を承知で、ある日の午後、ピカデリー方面に出かけました。

 今はクレジットカードの時代ですが、そのころの安全策はトラベラーズチェックでした。従って、現金でのドルはあまり持っていませんでしたがそれでも50ドルくらいは持っていました。僕はそれをポケットに入れて、おっかなびっくりの気持ちでホテルを出て、坂道を下ってピカデリー駅の方へ向かいました。
 写真は早朝のパリの北駅近く
 電線や電柱がないとこんなにもスッキリするのですね。

僕の45年間ー542010/09/10 21:53

 1月のパリの夕暮れは早く、僕がピカデリーに着いたころには街灯が少しずつつき始めていました。ピカデリーはアベスに比べて、たくさんの派手なネオンサインを揚げた飲食店や映画館などが軒を連ねていていました。
 僕は闇の両替屋が現れるのを、半ば期待をし、半ばそのまま帰った方がいいかなと思いながらぶらぶらと表通りを歩きました。ほどなく、背後から「ムッシュー、エクスチェンジ?(両替)」と声を掛けられ、予想をしていたはずなのに僕はビグッとして、一瞬凍りつきました。心臓はバグバグしていました。僕は思い切って「ウイ」と言って振り向きました。目に入ったのは褐色の肌をした、大きな目をギョロットさせた、僕の背丈とあまり変わりのない男でした。何となく背の高い白人が現れるのではないかと想像をしていたので、その男を見て背の低い僕はどこかで安心をしていました。
 男が指す方向はビルとビルの間の細い路地でした。そこには街灯もネオンサインもなくうっすらと暗く目立たないところでした。僕は「フィフティーダラーズ」といいました。男は「ウイ」と言い、ポケットから札を出し、数え、その札をゴム輪でくくって差し出しました。僕は男が数えているのを見ていましたから「大丈夫」と自分に言い聞かせ50ドルを渡しました。それを手にした男は脱兎のごとく路地から消えてゆきました。
 僕は街灯があるところまで出て札を数えてみました。「しまった。やられた。」と思ったもののすでに後の祭りでした。僕の50ドルは半分に減っていました。がっくりしながら自分に腹立たしさを覚えました。とぼとぼとホテルに帰る途中、何人もの厚化粧をした娼婦に声を掛けられ、それどころじゃないよ!とますます腹が立ってきました。
 日本を出て以来の初の大失敗でした。その日の夕食は無しと決めました。

 高橋さんに会ったのはその出来事の直後でした。僕は稼がないと餓え死にすると思いました。恐怖心が沸いてきました。気分が落ち込むと肉体も調子が悪くなります。そんなときに僕は風邪を引いてしまいました。大したことはないだろうと思いながら日本から持参した風邪薬を一ビン空にしました。
 しかし、悪寒と下痢が治らず悪化するばかりでした。ホテルのトイレは各階の共用のでしたから下痢の症状には最悪でした。寝込んで三日目くらいには廊下の壁に手をつきながらフラフラしながら、トイレ通いをしていました。
 安ホテルのスチーム暖房のラジエーターは朝夕にほんの少し暖かくなる程度で、その上に、毛布も限られていていました。僕は空腹と悪寒と下痢で眠ることもできず、部屋の天井の染みを見つめるしかありませんでした。眠れない闇の中で風邪以外の何か立ちの悪い病気だったらどうしようか、医者に診てもらうにはどうしたらいいのだろうか、フランス語も英語も出来ないのにどうやって症状を伝えたらいいのだろうか、日本大使館の電話番号は手帳に書いてきたはずだなどと思いながら、「死にたくない、死にたくない」と念じ恐怖心と戦っていました。
 しかし、体調は悪くなるばかりでした。

 写真はムーラン・ルージュ (Moulin Rouge) 2005年12月
 1889年に誕生したパリのモンマルトルにあるキャバレー

僕の45年間ー552010/09/12 20:23

 食べ物は乾いて硬くなり始めたフランスパンとマーガリンしかありませんでした。外へ出て買い物をする元気は到底ありませんでした。風を引いたかなと思った日に念のためと思い、少し多めにパンやミネラルウオーターを買いましたが十分ではありませんでした。暖かい飲み物をと思っても湯を沸かす設備はなく、冷たいミネラルウオーターを飲みました。
 僕はあたりが暗くなると洗面台の鏡の上に付いている小さな照明をつけました。ときどきうとうとしながら、スチームが流れるときに出るキンキンという金属音で目を覚まし、悪寒と下痢、空腹に耐えていました。
僕はパリまでようやく来られたのに、まだ何もやっていないじゃないかと、自分に怒ってみたり、風薬はもうない、食べ物もない、しかし、まだ死にたくはないと自分に言い聞かせていました。

 4日目ぐらいだったと思います。その日も何度目かのトイレ通いをしていました。
 僕の部屋は3階で、トイレは2階と3階の中間にある踊り場にありました。トイレから出てきたときに、階段を下りてくるアジア人の女性が階段でフラフラしている僕の無様な格好をみて、「どうしたの?」と日本語で声を掛けてくれたのです。
 「私の部屋にいらっしゃい!」と言って、自分の外出を止めて4階の部屋に招いてくれました。リュックサックしかない殺風景な僕の小さい部屋とは段違いでした。壁には何点もの油彩の作品が立てかけられていました。さっきまでしっかりと暖房が入っていたようで別世界の暖かさでした。部屋は僕の3倍くらいはある広さで、油絵具の匂いが充満していました。久しぶりにテーブルと椅子が整った部屋でした。
 その椅子の一つに座らせてもらい「すみません」と言うのが精一杯でした。彼女は「今、日本茶を入れるからね」と言ってやかんを掛けました。僕は暖かいものが飲める、と心の中は半泣きでした。そのとき、ドアがノックされて来客がありました。やはり、日本から来た男性の絵描きさんでした。その人も僕をみて「ひどい顔をしているね」と言いながら空いている椅子に腰をおろしました。
 女性は熱い日本茶をいれてくれ、同時に「梅干あるよ」と言って、一つを指でつまんで僕の茶碗に入れてくれました。僕にとっては久しぶりの温かい飲み物でした。僕はフーッと深く息を吸いました。
 その女性は2年ほど前からパリに来ていて、もっぱら椅子だけを描いている方でした。部屋にあったどの作品も題材は椅子でした。
 21歳の僕は一番の若造で、お二人とも30歳を超えて見えました。何の話をしたのか皆目思い出すことができません。残念ながらお二人のお名前も思い出せません。椅子の作品1点ははっきり思い出します。座面から下の足の部分が少しデフォルメされた、椅子を上から見た構図の赤い絵の具をふんだんに使った作品でした。椅子の実寸くらいの大きさのキャンバスでした。
 僕は梅干の入った茶碗を両手で持ちながら、あったかいな~と思い、一口頂きました。ミネラルウオーターと違って味がしました。そのことだけで僕は生きていることを実感し、気持ちがヘナヘナとなりました。一杯の梅干の入った日本茶を飲み干したとたん、さっきまでの何日も続いていた悪寒が頭のてっぺんから徐々に、足のつま先まで消えてゆくのがはっきり分かりました。僕は「救われた!」と思いました。後にも先にもそのときだけの経験です。

 一週間ほど経った2月初旬に、前述の南アフリカから来た高橋さんと一緒に、当時の西ドイツのハンブルグへ向けてパリを後にすることにしました。モンマルトルの丘で仕入れた情報では西ドイツにはアルバイトがありそうだということでした。仕事探しのヒッチハイクを敢行です。ヨーロッパの地図を広げて、最初に目指すはアムステルダムと決め、郊外まで電車に乗りました。パリの2月初旬は天気も不安定で大変に寒く、その日も雨模様でした。

 雪模様のパリ・リヨン駅前 2005年12月

僕の45年間ー562010/09/17 21:32

 パリの郊外まで電車で出ました、ヒッチハイクの経験は日本ではありませんでした。高橋さんの「指導」のもと、予め用意をしておいたスケッチブックに太いマジックペンで「For Brussels」と大きく書きました。
我々が目論んだのはとりあえずベルギーのブラッセルへ向かうことでした。幹線道路に立ってこの手製の看板を掲げて車が止まってくれることを期待しました。しかし、雨上がりの水しぶきをあげながら、猛スピードで走り抜ける車ばかりで、映画などで見るヒッチハイクのように容易なことではありませんでした。
多くの車が僕らの目の前をむなしく通り過ぎて行きました。高橋さんが言うように親指を立てて、何時間も歩きました。よく見ると車を止めようとしていたのは僕らだけではなく前方にも後方にも、道路沿いのあちこちに何組もの人たちが親指を突き出していました。

 雨足はだんだんと本格的になってきました。それに合わせるかのようにヒッチハイカーたちはどこかに消え始めて少なくなってきました。車を止める競争相手ではあっても仲間が少なくなると僕は心細くなりました。このまま車が止まってくれなかったらどうしようかと、雨の中で夜を迎えることに恐怖心さえ覚えました。しかし、高橋さんは雨に濡れながらでも慣れている様子で陽気に親指を高々と挙げていました。僕の持っていた衣類には限りがあり寒さが身に応えました。僕らは交替で親指を突き出し続けながら幹線道路を歩きました。寒い上に雨に打たれながら、車の来る方向を見ながら後ろ向きに歩くのは本当にくたびれました。

 どれくらいの時間歩いたか記憶にありませんが一台の大型のトラックが止まってくれました。僕らはその車の運転席に駆け寄って息をハアーハアーさせながら「Brussels?」と聞きました。運転をしていた男は何やら説明をしてくれている様子でしたが僕らにはさっぱり分かりませんでした。便乗をしてもいいという事だけは分かったので僕らは、とりあえず、と思って乗り込みました。どれぐらいの時間、そのトラックに乗っていたのか覚えていません。
雨は上がっていました。やがてトラックはどこかの街に着き、止まりました。男は前方に見える鉄道の駅のようなのを指して、何やら言いました。ここで降りて電車に乗ってブラッセルまで行け、と言われているような気がしたのでThank youと言いながら降り、その駅へ向かって歩きました。小さな駅でした。幸い駅員がいたので「Brussels?」と言いました。高橋さんの英語は僕の耳にでも明らかにブロークンでした。しかし、当時の僕としては南アフリカで仕事をしていた人というだけで尊敬に値する人でしたから情報収集はもっぱら高橋さんに依存していました。
その高橋さんが理解したところではブラッセルまでは3~4つの駅でさほど遠くはないということでした。僕の地図で現在地を確認しようと試みましたが、その町があまりにも小さいせいか探すことができませんでした。

 プラットホームに電車が入って来ました。駅員の指示通りに切符を買って乗り込みました。電車に乗り込むときに駅員が、僕にも分かる単語の「Terminal station終着駅」と言っていたことが安心感となり、ぐったりと疲れを覚えました。
 
 僕は電車の中でリュックサックからユースホステルのガイドブックを出し、ブラッセルのホステルを捜しました。どうやら、中央駅から路面電車に少し乗ったところにありそうでした。ベッドに空きがあるだろうかと思いながらうとうととしました。

 写真は2005年12月。 
 パリからブラッセルへ向かう電車。軽い朝食付きで快適でした。

札幌の秋2010/09/20 00:40

 大通り公園での「さっぽろオータムフェスト」の最終日、散歩をしてきました。道内の農作物生産者は秋の味覚をたくさんの提供していました。
 4丁目から7丁目まで所狭しとテントを張り、テーブルを設置してチーズや生ハム、ジンギスカン、ご当地自慢のラーメン、ビール、ワインを、多くは500円均一の価格で販売していました。
 人ごみで歩けないくらいでした。

 写真はテレビ塔の近くで見つけた紅葉です。
これからの季節、里の気温も下がり始め、木々は秋の色に染まってゆきます。

とら トラ 虎2010/09/21 23:29

 僕は夕食後には大方、血糖値の調整(つまり血糖値が高いということですが)のため散歩をします。小一時間はウロウロと、散策します。

 40才代や50才代の時よりもはるかに多い運動量です。当時は朝から晩は10時頃まで、コンピュータのモニターを見つめていました。その合間合間には英語レッスンをし、散歩をするなどということは念頭にありませんでした。ましてや、仕事が終ってからの夕食が11時頃で、それが高血糖の原因になるなどと言うことは、恥ずかしいながら知識がありませんでした。毎日読む新聞記事でそのようなことは警告されていたとは思うのですが、浅はかでした。

 血糖値の高さを指摘されたのは人間ドックでした。腎癌の告知を受けたのと同時でした。僕にとっては腎癌よりも血糖値のほうが重大問題のように思えました。僕の腎癌は比較的初期段階に近かったので手術で大丈夫と言う説明でした。7年たった今も転移を監視するために毎年さまざまな検査を受けています。幸いにも腎癌にはその後の投薬は一切なくなくあり難いことだと思っています。
 が、血糖値の管理は思いの他難しいと思っています。口に入れるあらゆるもの、食事や飲み物は無論、嗜好品にも注意をしなければなりません。
ときどきの例外日はありますが日に1400キロカロリを意識するように栄養士さんにいわれています。

 すすき野の端っこに引っ越す前、散歩はいつも同じ道を歩く羽目になって大変退屈でした。しかし、ここ周辺は日々ダイナミックに変化しているので、街好き人間にとってはたまりません。
 
 写真はそんな僕の散歩道で見つけたトラです。飼っているのは理容室です。実におとなしいトラです・・・。

新しい地下街2010/09/22 21:58

 「新しい地下街」は地下鉄大通り駅と札幌駅をつなぐことになります。写真は大通り駅から札幌駅の方面を見たところです。このように工事の進捗状態が分かるようになっています。来年の3月に開通する予定です。
 僕にとって幸いなのは、冬になっても足元を気にしないで、往復一万歩くらいは散歩が出来るようになることです。
 戸建に住んでいたときには、転倒しないように冬靴に滑り止めの金具をつけて用心深く散歩に出かけていました。僕は後縦靭帯骨化症という厄介なのを抱えているので医師から「転ぶな」と厳命されています。そんなことで、屋根のある狸小路まで4分くらいを我慢すれば、札幌駅まで足元も天気も気にせず歩くことが出来るようになります。

 雪国での住民の生活は傍から見るよりも大変なものです。札幌の場合、少なくても5ヶ月くらいは雪との「戦い」を強いられます。戸建に住んでいる人は玄関前や車庫前の除雪をしなければ一日が始まりません。天気予報が「明日は雪になるでしょう」と云えば、ぞっとします。
 それが大きな理由で、自堕落を決め込みたく、僕は3月からマンションに住み替えました。今度の冬からは雪がいくら降っても、窓から眺めてきれいだな、と思っていればいいのです。雪の降る街の灯を六階の仕事部屋から眺めるのが楽しみです!
  
 雪は経済的にも金食い虫です。個人の暖房費の支出もさることながら札幌市の資料を見ると雪対策の今年度の予算は147億円以上です。雪がなければ、社会福祉にもっとお金を使えるのにと思うのは僕だけではないと思います。
http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/yuki/jigyou/budget.html
 北海道の人口は500万人を切り、減少傾向です。しかし、札幌市の人口は微増しています。年代によって様々な理由があると思いますが、高齢者が札幌に転居したいと思うのは医療機関の充実と合わせて除雪が比較的行き届いているからのような気がしています。

札幌の秋-22010/09/24 21:51

 今日は久しぶりに万歩計をつけて歩きました。
 拙宅のドアをバターンと閉めてから、背後に太陽の暖かさを感じながら狸小路一丁目までアーケイドを歩いて2400歩。

途中、5丁目にある八百屋で妻に頼まれた生姜とみょうがを買いました。ここでときどき買い物をしているせいか、オヤジさんの機嫌が良かったせいか、サラダ菜としし唐をおまけでくれました。

 続いて、TVタワーの足元までで3000歩。

 なぜ、TVタワーの足元近辺はあんなにゴチャゴチャと、どこかの家の裏庭のような具合なのかなと思いながら、その真下で直角に左折して大通り公園へ。

 そういえば、数年前に東京タワーへ行ったときにも同じようにタワーの足元が垢抜けていないと思いました。やはりゴチャゴチャとチケット売り場やソフトアイスクリームの店が無計画に増築されたように並んでいました。おのぼりさんが集まるところはそんなものなのでしょうか。昔の上野駅も東京駅に比べれば泥臭い印象がありました。

 駅前通りに出てまた左折し、ススキ野交差点まで4600歩。
 
 角のマクドナルドで120円の温かいコーヒーを飲んで一休み。最初はアイスコーヒーを注文したのですが、もう温かいのが正解のような気がしてあわてて変更しました。ここはWiFiがつながるのでメールのチェック。英文校正の受注を一件確認。
 
 36号線をまっすぐ西へ。拙宅のドアまでで丁度、6000歩。

 写真はTVタワー前で。僕はなぜか逆光が好きです。

ある国の、漁業の盛んな街でのある会話2010/09/27 00:24

<新聞やテレビで有名になったある船長の帰宅>
船長「母ちゃん、帰ってきたよ。だけどね、今回は土産はなしだ。」
母ちゃん「ああ、お帰り。日本の米は美味しかったかい?」
船長「そりゃ、何ていっても日本の米だ。農薬の心配も無しで、腹いっぱい食った。」
母ちゃん「そりゃ良かった。」
船長「何とかすきを見て、炊飯器と米(注1)を土産に買おうと思ったんだけれど、出来なかったよ。」
母ちゃん「看守に握らせてもだめだった?」
船長「今回の看守は堅物だったからな。」

<数時間後>
警察官「船長いるか?」
船長「おお、こっちだ。どうした?」
警察官「署長がお前をしょっぴいて来いっていうから。」
船長「何でだ?俺は英雄だぞ、分かってんのか!テレビでも新聞でも、見たろ。俺を。」
警察官「ま、いいからチョッと署まで来てくれ。」

<警察署で>
署長「お前を逮捕する。」
船長「なに~!俺は何も悪いことしていねぇヨ!」
署長「日本で何があったかベラベラしゃべられると困ると、上の者がいうからしょうがねえ。逮捕だ。」
船長「そんな馬鹿なことってあるか。俺は英雄だ!」
署長「お前は労働教養施設(注1)送りだ!」
船長「そんな馬鹿な!弁護士を呼べヨ!裁判もしないのか?」

船長は母ちゃんにさよならも言えず、即、バスに押し込められて労働教養施設送りとなった。

注1:中国からの多くの観光客が土産に購入する物の一つ。
注2:朝日新聞朝刊(2010年9月24日)によると、中国には正規の裁判所での審理を必要としない、警察が単独で判断できる「労働教養制度」というのがあって、最長4年間、一般市民を勾留できるそうである。記事には実際にそれを経験した人たちの談話が掲載されている。通常の国家では常識であるはずの「逮捕―弁護士付きで裁判―判決」という司法制度以外に、警察にとって都合の良い国民の教養を高めてくれる施設があるようだ。

何故か、ロシアの小説家ソルジェニーツィンの処女作「イワン・デニーソビチの一日」を思い出し、ぞっとしました。
読書家であった父が珍しく薦めてくれた本でしたので記憶が鮮明です。

南川泰三氏の「混線電話の重大会話 」
http://taizonikki.exblog.jp/13295733/
に触発されて書きました。
この会話は僕の妄想以外の何ものでもありません。念のため。
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