僕の45年間ー632011/01/23 14:32

 繁華な通りを行ったりきたりしながら何かのアルバイト募集の張り紙はないかと常にキョロキョロとしていました。そんなときに目に飛び込んできたのが「飾り窓」でした。時間もだんだん夕方になり方々の飾り窓に華やかな趣向を凝らした電飾が目立つようになっていました。高橋さんは、自分は経験豊富だよと言わんばかりに僕に聞きました。「大坂さんは未だ童貞でしょ」と。いやな質問だなとは思ったものの僕は正直に小さな声で「はい」と言いました。

 通りには原色豊かにあでやかに飾り立てた大きな額縁のようにしつらえた窓が連なっていました。男を誘う女性たちは長いキセルでタバコを吸っていたり、半裸で空を見つめるような表情をしていたり、怪しいしぐさで挑発をするようなしぐさを繰り返したりと様々でした。
 高橋さんは「ここはアフリカより品があって清潔感があるからいいよ。大坂さんが興味があるなら俺、付き合ってもいいよ」と意味深に言うのです。
 大いにそそられる状況でしたが僕には踏み出せませんでした。飾り窓の女性たちの値段は知る由もありませんでしたが、ことのアトの残りのお金を考えたら、惨めな物乞いをする羽目になるだろうことは容易に分かることでした。

 僕は戦前の赤線のことは新聞や雑誌で読んだ範囲しか知らない世代です。その赤線が合法的にこのアムステルダムに存在していて、自分がそれを見ていることに違和感を覚えました。

 後々に分かってきたことですがオランダの人々(か政府)は大麻にしてもエイズ蔓延を防ぐための注射器の無料配布などにしても飾り窓と同様大変実利的な思考回路を持っていると僕は思っています。
 オランダに限らず西欧の国々の中には同じような法律を定めているところがあります。また、それとは正反対の立場を取る国もあるわけで、価値観は本当に様々だなと思います。

 というわけで僕の童貞喪失はしばらくお預けとなりました。

 写真は2008年11月。アムステルダムのダイヤモンド研磨工場。
アムステルダムは400年以上も前からダイヤモンドの研磨をし、世界に流通させている街です。

僕の45年間ー642011/01/24 14:16

 夕方にはアムステルダム中央駅に着きました。まっすぐコペンハーゲンを目指そうか、途中でドイツの都市を試みるか迷いました。電車の時刻表を見ながら二人で悩みました。どっちにしてもアルバイトがあるかどうかの確かな情報は持ち合わせていませんでした。アムステルダムで会った日本の人たちの話から見当がついたことは、ユースホステル発祥のドイツのユースホステルは規則が厳しく窮屈であることやデンマークに入国する際には所持金の確認がなされるらしいということでした。いくらの所持金で入国をさせてくれるかまでは分かりませんでした。

 僕らは手持ちのお金が多少でも多くあるうちにデンマークに入国してしまった方が得策ではないかと思いました。デンマークに入国できれば、コペンハーゲンの先にはスエーデンのストックホルムを試みることが出来るとも考えたのでした。

 僕は電車の旅はすきです。
 中学3年から東京に出されましたから両親の居る青森市までの帰省はもっぱら上野発の蒸気機関車が牽引する汽車でした。当時は14時間ほど掛かったと思います。3等の木製座席で鼻の穴が真っ黒になるような旅でしたが楽しんだものです。しかし、今回はわくわく感は全くありませんでした。
 
 何時出発の電車であったかは覚えていません。しかし、デンマークの国境に着いたのは早朝7時ころでした。十数時間はかかったと思います。今はどうなっているか分かりませんが当時、電車で入国したときには大変こぢんまりとした入国管理事務所でした。建物に入ってゆくと僕とあまり年恰好が違わない感じのそれらしき制服制帽の男性が一人、ぽつんとカウンターの中に居ました。他に係官が居る風でもありませんでした。
 降りたのは僕たちだけであったのか先客は皆無事に通過したのか分かりません。入国事務所はがらんとしていました。

 フランスからベルギー、オランダへ入国した際には形式的なパスポートの検査と入国日時を示すゴム印が押される程度でした。

 僕はカウンターへ向かって数歩進みました。うわさに聞いていた所持金の検査が気になって少し緊張をしていました。若い入国管理官は僕のパスポートを入念に検査しました。そして、うわさ通りに所持金を見せるように言いました。

 写真は前回同様、ダイヤモンドの研磨工場です。この工場見学で最も人気が高いのは女性たちがたくさんのダイヤモンドのアクセサリーを試すことが出来ることです。

僕の45年間ー652011/01/25 20:20

 僕はやっぱりと思いながら手持ちの米ドルのトラベラーズチェック全部と日本円2万円をカウンターの上に出しました。はっきりと記憶はしていませんが250ドルくらいはまだ残っていたと思います。入国管理官は注意深く計算をし、これで全部かと聞きました。僕は正直に「イエス」と答えました。続いて、帰りの切符は持っているかと聞きました。僕は「ノー」と答えました。係官はほんの少し考えた風でした。そして、おもむろに口を開きました。出てきた言葉は僕にもはっきりと分かる明確で単純な英語でした。「You can not enter the country. You have to go back to Germany. Take the next train.あなたは入国はできない。ドイツへ戻るように。次の電車に乗ってください」というものでした。
 僕はやっぱり、と思いつつも愕然としました。落胆をしました。ドイツなりオランダに戻っても電車賃がかかるだけです。ましてやドイツやオランダに何の当てもあるわけでもないのでここで引き下がるわけにはいかないと、僕は心の中で改めて決心をしました。改めてというのは、デンマークに到着するまでの電車の中で何度も何度も思いをめぐらしていました。所持金が不足で入国を拒否された場合には、持っているカメラを換金してでも滞在費を工面することを説明しようと。

 少しの知識があれば分かりきったことですが、どんな国に於いても入国の際に持ち込んだ物品をその国で換金することは「密輸行為」です。そのことを入国管理官に話すことは墓穴を掘ることなのです。

 しかし、当時の僕にはそんな初歩的な知識も無い馬鹿でした。僕はあからさまにデンマークの入国係官に言ってしまったのです。「幾らのお金があれば入国させてくれるのですか。僕にはこれらのカメラがあります。必要ならあなたに売っても良い。何としても入国を認めてほしい。」と。
 カメラバッグには使い古したペンタックスのボディー2台とレンズが3本、セコニック製の露出計などもろもろの機材が入っていました。

 写真はパリのレストランで。妻は魚料理が好きです。特に舌平目ドーヴァーソールをイギリスで食べて以来、どこへ行っても注文をします。2005年12月

僕の45年間ー662011/01/26 22:15

 若い係官は僕のカメラバッグを覗きながらも困惑した表情を隠しませんでした。係官は電話を取り上げて誰やらと話をしました。デンマーク語でしたからどんな内容の話であったは知る由もありませんでした。彼はじきに電話を終えて僕に言いました。互いに不慣れな英語でのやり取りでしたが要約するこのような内容であったと思います。
「未だ朝の7時なので自分の上司は出勤していない。上司は9時になったらここに出てくる。その上であなたの入国について判断をするからしばらくここで待っていてほしい」
僕はとりあえず納得をしました。

 次は高橋さんの番でした。同じようにパスポートを入念に検査し、所持金も提示を求められました。高橋さんは僕よりは多くの、全てを米ドルの現金で持っていました。彼はおどおどした風も無く泰然としていました。年季が入っているな、と僕は思いながら頼もしく感じました。

 僕らは誰もいないがらんとした入国管理事務所で退屈な2時間ほど時間をつぶしました。何もすることは無いのでベンチに横になったり、時々外に出て冷たい新鮮な空気を吸ったりして過ごしました。

 やがて上司が同じく制服制帽の姿で出勤してきました。何やら若い係官と話をした後に改めて僕らのパスポートの一ページ一ぺージを入念にチェックしました。
 
 その後、カウンターの奥まったところにあった小さな個室へひとりずつ通されました。僕のリュックサックの中身が全部テーブルの上に出されました。無論、入っていたのは着替えと洗面道具、数冊の本だけでした。
その上司はやおら一枚の書類を取り出しました。どうやら僕の持ち物のリストを書いているようでした。その中にはカメラバッグの中身や所持金も含まれていました。書き終えた彼はここに署名をしなさいと言いながらペンを手渡してくれました。全てがデンマーク語で書かれていて僕には何の書類なのか分からないまま署名をしました。

 僕の心中はあせりの気分と相反して何かゆっくりとした時間が流れているように思えました。
 僕らが乗ってきた電車の後続は到着する気配はなく入国管理事務所には僕らだけでした。
 
 最初のカウンターのある部屋に戻されて少し待ちました。奥のほうでは上司が若い係官に何やら指示を出しているようでした。
じきに、若い係官が僕らのパスポートを手にして言いました。「Welcome to Denmark.!」
若い係官はニコニコしていました。僕らは肩の力が抜け、ヘナヘナとなりました。

 写真はパリ北駅前の建物。2004年12月。一階はキャフェやレストランが多く、上部はホテルです。僕ら夫婦はこの界隈が好きです。24時間絶え間なく人が流れています。ここの延長線上にすすき野に住むという今があります。
(残念ながらデンマークの写真は一枚もありません。)

僕の45年間ー672011/01/27 20:06

 ようやく国境を越えてデンマークに入国しました。あの時はどれだけ安堵したことか、今思い出しても緊張感を覚えます。

 コペンハーゲン行きの電車が来るまではしばらく時間がありました。今度は入国管理事務所ではなく駅で時間をつぶしました。
 強い空腹を覚えましたが小さな国境の駅で売店も何もありませんでした。
 入国を果たせたからと言ってアルバイトが見つかるという保障は何も無いのですが何かを成し遂げたような気分になっていました。早く安心をして腹いっぱいの食事が出来るように成りたいとは思いましたがそうは問屋が卸しませんでした。

 コペンハーゲンに到着したのは夕方であったと思います。駅前に出ると薄っすらと雪が積もっていました。ユースホステルのガイドブックを頼りに駅前にある路面電車のどれに乗るべきかを探しました。

 二両連結の路面電車の中で聞こえてくる言葉には全く馴染みがありませんでした。音はドイツ語のようなオランダ語のような感じがしました。僕が抱いているフランス語のある種の華やかな印象はありませんでした。
 時として津軽弁のようにさえ思えました。私見ですが北国の言葉は冬の寒さで口を大きく開くことなく音を発するので濁音が多いように思います。反面、温かな国の言葉には軽やかな印象があるように思います。
太宰治が津軽弁をフランス語のようだといったのはなぜだろうといまだに合点が行きません。僕も津軽出身なのですが。

 電車は街の中を抜けて郊外へ出ました。随分と遠いなァと思ったことを思い出します。あまり時間がかかるとどうしても「間違った電車に乗ったかな」という思いを持ってしまいます。無論、電車に乗り込むときには車掌さんに「We want to go to Copenhagen Youth Hostel.」と伝えて、間違いがないように確認はしているのですが不安になると落ち着かなくなり、そわそわし始めます。
ここだよと声を掛けてもらえるように僕らは車掌さんの立っている近くの座席に陣取りました。


  写真はパリ北駅の時刻表。2004年12月

僕の45年間ー682011/01/28 20:29

 電車はガタンという音と共に止まりました。車掌さんは仲通りを指差して「Copenhagen Youth Hostel」と教えてくれました。

 仲通りを歩いていると日本人らしき若い女性が前方から歩いてきました。背丈は小さいのですがガッチリした体格で、遠くから見たときにはこけし人形のような印象でした。その女性も我々を日本人と思ったらしく「こんにちは!冷えますね」と声を掛けてくれました。ほっとしました。彼女は「ユースはもうちょっと先にあるから」と僕らが訊ねる前に教えてくれ、いかにも慣れている風に電車通りへ向かってさっそうと歩いてゆきました。全く予期しない日本の人との出会いでしたから「ユースに泊まっているんですか」とか「後でまた会えますか」とかのお話は何も出来ませんでした。
それがこけしさんとの初対面でした。

 僕らは今度こそアルバイトを探さないと生死にかかわると真剣に思いながら歩きました。
 目の前に現れたユースホステルは、それは大きくて立派でした。それまでに泊まった2つのユースホステルとは規模が違うように見えました。
 階段を4~5段上がってドアを開けてロビーに入ると、僕のめがねは一瞬にして曇ってしまいました。メガネをはずして見渡すと大勢の若者たちがあちこちの椅子やテーブルのあるところにたむろしていました。皆、実にリラックスした感じで談笑していました。中にはギターの弾き語りをしている者もいました。今までのユースホステルの雰囲気とは全く異なっていました。

 受け付けはロビーの奥の方にありました。受付に着くや否や今度は作戦を変えて「3泊できますか」ではなく「出来るだけ長く滞在したい。仕事を探すのが目的です」と受付の人の目をしっかり見て伝えました。しかし、受付氏はそんな僕らの「必死さ」に全く頓着無くで、予約台帳に目を落として「ヤ、ヤ」とのんびりした返事を返すだけでした。


 写真はパリ北駅近くのホテル。
 美味しいパンとハム、チーズは朝食に関わらず、昼食でも夕食でも我々夫婦を幸せにしてくれます。2004年12月

<参考までに>
Continental Breakfast =基本的にパンとコーヒーの軽い朝食。西欧大陸の様式と言われています。
English Breakfast=トースト、ソーセージやベーコン、卵料理です。ドーヴァー海峡を渡って英国に行くとこの様式の朝食になります。

僕の45年間ー692011/01/29 17:37

 受付に居たのは35~6歳の黒い縮れ毛の、口ひげをたくわえた白人男性でした。「From Japan?」と言いながら名前やパスポート番号を書く用紙を無造作に渡してくれました。続けて「You want to stay one month?一ヶ月滞在したいか」と言いました。僕らは即座に大きな声で「YES!!」と応えました。高橋さんと顔を見ながら「良かったな、助かった」と言い合いました。

 与えられた部屋は2階の4人部屋で2段ベッドが2台ありました。先客が一人居ました。ジョンさんです。ベッドから足が出てしまうほどの長身でした。今はどこででも見かけますが肩にかかるほどの茶色の長髪で、輪ゴムで束ねていました。高橋さんは下のベッド、僕は上のベッドと決めました。やれやれと思いながら荷物を置いてロビーに下りました。

 ここのユースホステルは今までのと違って規則が緩やかでした。日中も滞在できるようで行き場の無い貧乏旅行の若人が大勢たむろしていました。びっくりしたのは、中にはコーヒーなどのソフトドリンクではなくカールスバーグ(Carlsberg)のビールをビンのまま飲んでいる人が何人も居たことです。当時の世界共通のユースホステルの規約にはアルコール飲料は禁止と書かれてあったのですが。皆、大きな笑え声を発しながら楽しそうでした。そのとき、改めて実感したのは英語は大事だな、という言うことでした。
 同国人同士であれば当然母語で話していますが、白人同士といえども必ずしもそれは初めからわかることではないのでやはり出だしは英語なのです。フランス語でもなくドイツ語でもありませんでした。
 
 玄関の近くに所在無さそうにしていたアジア系の僕と同じくらいの年格好の青年がいました。僕はうかつにも気安く日本語で「ここはにぎやかですね」といいました。その青年は「I am not a Japanese. I am from Hong Kong.僕は日本人ではありません。僕は香港から来ました」と黒ぶちのメガネに手をやりながら少し不快そうに応えてくれました。
 僕はフランス語やドイツ語の学習を考える前に、最初に英語を勉強したほうが良さそうだと思いながら、外見で他人を判断することは失礼なことであることを学びました。

 写真は北駅前のホテル。僕らに「駅前旅館」に滞在することの利便性と楽しさを始めて体験させてくれたアルバートホテルです。
http://www.parisby.com/albert1/
(宣伝のつもりではありませんが・・・ご参考までに)

僕の45年間ー702011/01/30 20:25

 コペンハーゲンユースホステルは大変めずらしく、日に三食を提供する大きなキャフェテリアがありました。
 到着して間もなく夕食の時間が来ました。僕らは一日いっぱい何も食べていなかったので猛烈にお腹がすいていました。受付で当時の現地通貨のクローネに両替をして早速キャフェテリアに行き夕食にありつきました。 15センチほどのソーセージが2本とジャガイモと玉ねぎのソテー、食べ放題の黒パンと白パンというメニューは忘れがたい食事でした。高橋さんと向かい合ってテーブルに着きむしゃむしゃと、誰かに見られたら恥ずかしいくらいたらふく食べました。僕は酒を飲めないのですが高橋さんは一人ビールを美味そうに飲んでいました。
その夜は夕食をたらふく食べたせいか、デンマークに入国できて安心したせいか、早々に眠くなりベッドにもぐりこみました。

 翌朝、目が覚めると同室のジョンさんはすでに起床し、2台のベッドの中間の床の上で腹筋の運動をしていました。彼は自分の腹部を指して「この腹が少し大きくなり過ぎた」と言っているようでした。歳は35歳くらいかなと思いました。

 僕は昨晩、あれほど食べたはずなのにとは思いながら朝食を食べようとキャフェテリアに下りて行きました。がらんとしていましたがまだ閉めてはいませんでした。お金を払ってコーンフレークスとパンとコーヒーを頂きました。
 
 外に出てみるとブルブルと震える寒さは昨日と同じでした。さて、どうやって仕事を探そうかと考えました。
 背後から「おはようございます」と声を掛けられました。振り向くと昨日道で声を掛けてくれたこけしさんでした。「しばらくここに居るの?」というので「はい。アルバイトを探さないとだめなんです」と資金が底をつきそうなことを説明しました。こけしさんは「今日はだめよ。日曜日だからたいていのレストランは休みよ。」と言いながらコーヒーでも飲もうとロビーの一角に誘ってくれました。高橋さんは高橋さんで、どこかで情報収集に励んでいるようで見当たりませんでした。
残念ながらこけしさんの名前を思い出しません。

 写真は12月早朝のパリ北駅近くの通り。右に見える「Apollo」はやはりホテルで後年滞在しました。ますます「駅前旅館」が好きになりました。2004年12月
http://www.hotel-apollo-paris.com/
(参考までに)

僕の45年間ー712011/01/31 21:10

 こけし女史は「しばらくはなかなかアルバイトは無いよ。3月か4月になって少し温かくなりはじめたらレストランやキャフェで皿洗いのアルバイトを雇うと思うよ」と状況を説明してくれました。彼女は月~金は街の中華レストランで調理の補助的な仕事をし、週末はユースホステルの調理場で働いているということでした。

 僕は女性の一人旅は怖くないですかと聞いたら「私ね、空手2段なの。大抵の男だったら大丈夫」と笑っていました。
「私ね、ボンベイからバスやヒッチハイクで北上して来たの。時々変な男にも会ったけれど大丈夫だったよ。ナイフを持っているような男だったらひたすら走って逃げるけれど、そうでなかったら大丈夫」と誇らしげでした。
 歳は僕の10歳くらい先輩のようでした。僕はすごい人も居るんだな、と思いながら尊敬してしまいました。

 こけしさんは、地下に洗濯場があることを教えてくれました。洗濯機を使えば少しお金が掛かるけれど手洗いならただだよということでした。僕は日本を出発して以来、はきっぱなしだったよれよれのズボンを洗濯したいと思い早速地下へ降りてみました。粉石けんは手持ちのがあったので大きなタライに湯を入れて、はいているズボンを脱いでごしごしと洗い始めました。お湯はすぐにグレーになり、またたく間に真っ黒になりました。こりゃひどいと思いながら3度お湯を変えて洗剤で洗いました。固く絞って暖房用のラジエーターにかぶせるようにして干しました。サッパリしたものの僕は着替えのズボンを持っていませんでした。下着のパンツで歩き回ることは出来ないのでず~っと地下にいるはめになりました。幸い大変熱いスチームが流れていたらしく3時間ぐらいでほぼ乾きました。ズボンも気分も軽やかになりました。しっかりしたアルバイトが見つかったら着替えのズボンを買おうと思いました。

写真はパリ北駅構内のチョコレート屋さん。2004年12月。
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