写真の「精神性」2011/10/19 23:56

  安友志乃氏に始めてお目にかかったのは2008年でした。氏が主宰していた写真の講評会に出席してお話を聞く機会が3回ほどありました。前にも書きましたが僕には大変勇気のいることでした。しかし、氏はじきにアメリカへ転居なさったのでそれっきりになってしまいました。
 

 今日は氏が書き続けているブログをご紹介したいと思います。
 
 http://shinoyasutomo.blogspot.com/

 これがそのサイトです。氏は写真に限らず様々な事柄について書いています。ページの右側に「ラベル」というくくりがあり、その中に「写真について」があります。
 僕にとっては難解な文章もあり、考え込んでしまうこともありますが勉強になっています。今回はその中からほんの少し、一部分、触れてみたいと思います。


 http://shinoyasutomo.blogspot.com/2011/10/blog-post_8904.html
 「 ~さらにカメラがディバイスと呼ばれるようになり、デジタル化されるようになって以降、~気の向いたときに、気の向いたものを乱写するようになり、当初、一枚のポートレイトに凝縮されていた人生のある側面に対峙しなければならない人間の顔の持つ精神性と、それを写すという精神性は、消滅した。かつてに比べ膨大な量の写真を写しているにもかかわらず、そのレンズの先に在る現実と対峙するような強い自己を持ち合わせた写真は、そこには見当たらない。全ての出来事はフラットで、人生における節目もピークもどこにも見つからず、人生の瞬間は、写す人々にとって、携帯のレンズに納められるほどの価値しか持ち合わせなくなり、それらの私生活写真はウエッブ上に垂れ流しされるようになった。~」

 
 僕は、まず撮りたいと思う事象を「選び」ます。光や影を見極めて、目前の事象をどのように切り取るかを決め、いくつか考えられる構図の中から一つを「選び」、ある瞬間を「選んで」シャッターを押します。それを何度も繰り返し、出来た何十枚か何百枚の写真の中から1枚を「選び」ます。組み写真であれば構成を考えながら必要な枚数を「選び」ます。
 細かいことの説明をすれば、色調を整えたり、トリミングをしたりという作業もあります。
 
 
 この一連の作業の中に氏の言う「人間の顔の持つ精神性と、それを写すという精神性」を求める精神的な作業があると思っています。僕の場合、シャッターを押すまでの時間と後処理をし作品(自分なりに)に昇華させる作業の中で被写体と様々な会話をします。そのことが氏の言う「精神性」なのかなと思っています。

 
 写真は安田 侃の彫刻作品 2011年10月18日
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