安友志乃=ポートレイト 通り過ぎる写真 立ち止まらせる写真2013/04/29 21:52

 「私にとって写真とは、二種類しかない。通り過ぎる写真と、立ち止まらせる写真である。おそらく、誰にもこの二種類の判断はあるように思う。そして、なぜ、立ち止まらせるのか、という基準もまちまちだ。アーバスの一枚に通りすぎ、かたや、もう一点の写真に立ち止まる、という人もいるかもしれない。」
http://www.shinoyasutomo.me/2013/04/study-of-photography-session-1.html?spref=tw

 安友志乃氏はブログに上記のことを書いておられます。全文は是非ともブログをお読みいただきたいと思います。

 僕はアーバスという写真作家を知りませんでしたので、WEBで探しました。
Diane Arbus
http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/Arbus.html

 安友氏の言葉はたびたび僕に難解な宿題を残します。先回のも僕は十分に消化していません。今回のも良くわかっているとは言い難いのですが、「ポートレイト」という書き出しを読んでしまったので通り過ぎるわけにはいきません。ポートレイト写真は僕にとって最も興味のある分野です。
 今回の氏のブログの文章で僕の気持ちが立ち止まったのは次の言葉達です。

―通り過ぎるか、立ち止まるか、二秒以下で脳が判断をくだしている。
―なぜ、あの写真を通り過ぎたのか。写真家の精神が何もないからである。写真が緩いのである。その緩さが全体を覆っている。写真が漫然としているのである。ゆるい写真というのはトリミングが自在である。
―最終的には、この人物を写す、この人物でなければならない意味性はなんなのか。つまり、写真として成立している要素全てに、絶対的にこれでなければいけない、という写真家の気迫が感じられないのである。
―アーバスの写真には、そう思わせる隙が何一つない。何一つだ。トリミングを考えることすら許されない写真だ。時代を超え、伝えるに値する普遍。伝えるべき何かを被写体に委託し、一枚の写真に凝縮できるか。
―悲しいかな写真は被写体がなければ始まらない。そう考えた時、撮るに値する人物がどこにいるのかを考える。全てがフラット化した今、ポートレイトほど困難な分野はない。

 安友氏のブログを読んで、僕はただただうろうろしています。自分がここ数年間に撮ったポートレイトらしき写真を思い出し、どれもこれもトリミングができるんじゃないか、と思えてきました。
  
 僕は写真を再開して以来、妻のポートレイトを撮っています。最も身近な被写体で、構えることがない、自然体のモデルで・・と僕には大変ありがたい存在なのですが・・・「~伝えるべき何かを被写体に委託し、~」ている写真なのかどうか?
 僕がカメラをいじっていられる間に妻に気に入ってもらえる一枚が撮れたらいいのですが。
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