初雪2014/11/13 21:41

 とうとう雪が降りました。わくわくします。見慣れているはずの拙宅からの街の景色も一変します。
 小さいころからそうでした。雪が降り始めるとなぜか心が躍ります。雪が降っていると「いい天気だ」と思っていました。

 戸建に住んでいるころは雪片づけのことで頭が痛いのですが、それでもやはり景色が変化していくのを見るのが楽しみでした。半年くらいおきに雪が降って、消えて夏が来て、また雪の季節がやってくることを繰り返しているのですが、僕はやはり初雪を見るとドキドキします。

 夕方5時過ぎころから降り始め、まだ続いています。

斧は津軽一帯に向けてふりあげられており2014/11/15 17:57

 僕は青森県出身です。そして津軽出身です。
 その青森県の下北半島には東北電力の東通原子力発電所(東通村)、日本原燃のウランとプルトニウムを取り出す再処理工場(六ケ所村)、電源開発で現在建設中の大間原発(大間町)の3施設があります。大間原発は建設中といえども2021年度に運転開始をもくろんでいます。
  
 小さい時から親に言い含められたことの一つに「ひと様に迷惑をかけるな」ということです。
 さて、僕の故郷青森は函館という「ひと様」に迷惑をかけるかもしれないことにあまり頓着をしていないようなのです。困ったものです。

個展の決定2014/11/16 20:41

 僕は来年の4月で70歳になります。そして、写真を再開して調度10年ということになります。

 再開した当初は個展などという大それたことは念頭にありませんでした。無論、写真月刊誌のコンテストに応募したこともありませんし、自分の写真がどの程度の出来なのか知る由もありませんでした。
 そんなときに出合ったのが安友志乃氏でした。そのことは下記のサイトをご覧いただけるとうれしいです。
「JRP札幌支部」
http://jrps.exblog.jp/tags/%E5%A4%A7%E5%9D%82%20%E5%BF%A0/
画面の下の若い番号からお読みくだされば分かりやすいかと思います。つまり「写真をもう一度2」からです。

 さて、何回かここで書いていますが僕の平均余命は残り14年となります。後半の5~6年は社会活動が難しいといわれていますから、運が良くて実質の残り時間は後10年です。
 写真を始めて10年が経ち、結果は5本の個展です。これからの10年で何本の個展を開けるか。あちこちに故障が目立ち始めている近頃ですが、水中ウオーキングに精を出して、と思っています。
 
 ここで本題です(笑)
 先月、個展の公募に応募していたのですが、審査を通過したという案内の電話を先ほどいただきました。本来は一ヶ月のちに手紙で案内をする、なのですが電話をいただいてしまいました。
 
 アサヒペンタックスフォーラム新宿での個展が決まりました。来年の夏ごろです。日程の決定はまだまだ先になると思います。
仮の題は「幕あい=パリのメトロ=」です。

 これまでの個展
・2009年2月「玉撞き屋の千代さん」キヤノンギャラリー梅田
・2009年9月「下北半島にて=1964-65年=」ペンタックスフォーラム新宿
・2011年6月「自主夜間中学=札幌遠友塾=」キヤノンギャラリー銀座などを巡回
・2011年10月「NY・マンハッタンの主たち」ペンタックスフォーラム新宿  

 今回ので5本目です。応募した作品は全部個展につながりました。
10割打者です(笑)

高倉健 死去2014/11/18 15:09

 高倉健が亡くなりました。
 いつもの水中ウオーキングから帰宅し、昼食をとっていたときです。TVのワイドショーではこのことを盛んに話題にしていました。出演している人々は異口同音に「僕らのヒーローが」という言い方をしていました。しかし、僕は高倉健に特別な思い出はありません。
 高倉健の出演映画をはじめて観たのはいつごろかと記憶をたどっても定かではありませんが、少なくても「僕らのヒーロー」と思えるほど若い時ではありませんし、高倉健の作品を観たいと思ってのことでももありません。多分、50歳代で「幸福の黄色いハンカチ (1977) 」をDVD で観ました。比較的最近になって「鉄道員(ぽっぽや) (1999)」を劇場で観ました。それも10年以上も前のことです。
 
 僕は、アメリカの西部劇で大活躍をしたジョン・ウエエンのように、何んの役柄を演じても金太郎あめのように「高倉健」であったような印象を持ちました。

 それはそれとして、TVを観ていて最も気になったのは高倉健の年齢でした。TVの画面の片隅にず~っと消えることなく「高倉健さん、死去 83歳」と表示されていてました。僕は思わず、傍らにいた妻に話しかけるでもなく「え!、あと十年だ」とつぶやいてしまいました。耳のいい妻はすかさず「あと、十年もあるじゃない」と。僕は「あとたった十年だよ」と。

 先回も書きましたが、僕は60歳で写真を再開したときのことを鮮明に覚えています。光陰矢のごとしといいますがあっという間の10年でした。その同じ10年という時間を、僕が運よく生きることができるなら、僕は何をしたいのだろう、などと捕らぬ狸の皮算用をはじめました。と同時に、なるようにしかならないだろうな、ケセラセラでいくか、とも思いました。

先ずは、明日もプールへ行って、これからの十年の体力維持に努めますか。
 
 高倉健が出演した2001年以降の作品
 ホタル (2001年 70歳)
 単騎、千里を走る(2005年 74歳)
 あなたへ (2012年宝 81歳)

 写真:晩秋の大通公園11月5日

生きる勇気を与えることが芸術=山田洋次=2014/11/19 20:06

 僕は何かを表現したくて、わずかここ10年のことですが、写真という方法でそれをやってきました。
 学生時代から撮るのも観るのも人物の写真が好きでした。当時感動したのに「The Family of Man」や「人間とは何か」という写真集や展示がありました。(下記のサイトをご覧ください)
http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/05/17/4309843
http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/05/18/4311624
 そして、「僕は何を表現したいのか」という、表現者にとって切実なことなのですが、一向に明確な説明ができるほど掘り下げることができない命題は、学生時代と同じように写真を再開したここ10年間も脳裏から離れません。
 それぞれの分野の表現者が「芸術ってなんですかねえ」と問い、答えを探しているのだろうと思います。高倉健もまた46歳ときにこの難問にぶち当たって、自分の演技のことを悩んでいたのではないでしょうか。
 
 僕は下記の記事に接して感動しました。山田洋次氏の説明は僕のジグゾーパズルの欠けていたところにぴったりとはまったような気がしました。

 朝日新聞夕刊2014年11月18日の記事
「貫いた映画人 高倉健さん死去、慕われた『最後のスター』」
(前略)
 決定的な転機は46歳で出演した「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(77年)だった。東映から独立後で、健さん自身、自らの進むべき道を探しあぐねていた時代だった。
 結果、健さんをヤクザ映画のスターから国民的ヒーローに押し上げる作品になったのだが、本人にしてみれば、「映画人」とは何か――よほど、悩んでいた時期だったのだろう。

 健さんは撮影の合間に、山田洋次監督に「芸術ってなんですかねえ」と聞いてしまう。質問を受けて3日たってから、山田監督は答えた。
 「ジャンルは違っていても、この作者がこれだけ頑張っているんだから、おれももっと頑張れるんじゃないか――そんな生きる勇気を与えることが芸術じゃないんですかねえ」
 健さんは忘れないように太文字のペンで台本の裏にそっと、しかし一生懸命書いた。その紙切れを生涯、「お守り」のようにして財布に入れていた。
(後略)

 写真を撮る際のシャッターを押す判断は瞬間のことです。その後、モニターで撮った写真を幾度も見て「こりゃ、だめだ」とか「これは使えるかな」と独り言をいいながら選ぶ作業をします。しかし、これからの選ぶ作業は「生きる勇気を与えるかな、どうかな」とつぶやきながらやってみようと思います。
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