イエス・キリストの降誕2014/12/25 23:44

 今日は12月25日です。イエス・キリストの降誕を記念する日です。近頃はクリスマスという言葉が普通になっているので、本来の目的であるイエス・キリストの誕生を祝う祭典の日であることが薄らいでいるような気がします。
 イエス様の誕生日は「新約聖書」には記されていないので、12月25日を降誕の日とすることはおかしいという議論もあるようですが、それは僕にとっては大きな問題ではないのです。

 神は存在するのか、という問いを何度も何度も自問もし、クリスチャンらと議論もしました。僕がイギリスのブライトンにいた時ですからもう45年も経っています。当時、同じアパートの3階にコリンさんとモーリンさんという、僕と年恰好があまり変わらない夫婦が住んでしました。コリンさんは小学校の教員でモーリンさんは看護師でした。二人とも熱心なクリスチャンで日曜日には教会にたびたび誘われました。僕はそのたびに神は存在するのか、という問いを吹っかけて議論をしました。時には「敵」は5~6人もの議論好きがひと束になって向かってきました。彼らは一所懸命に僕の質問に答えようとしてくれました。深夜になることもたびたびでした。そんな中で知った言葉が「Born Again」でした。議論の中では下記のように使われていました。

This means that a born again Christian has eternal life.
ボーン・アゲインしたクリスチャンは永遠のいのちを与えられる。
Though one may be born in a Christian home and of Christian parents, this does not make him a Christian.
クリスチャンの家庭に生まれ、クリスチャンの親に育てられても、それによってその人がクリスチャンになるわけではない。

 僕は聖書をよく読んでいるとは言えませんし、毎日曜日に教会へ行って礼拝を守っているわけでもありません。しかし、僕は神の存在を実体験として知っています。コリンさんとモーリンさんに丸め込まれたからでありません。また、哲学や宗教の学問として知っているわけでもありません。
 僕はいつからかは定かではありませんが、自分に流れている「血」が不浄なのではないかという疑問を持っていました。他人と比較をしてではありません。あくまでも大坂忠という人間に流れている血のことです。聖書的にいうなら「原罪」への意識に近いものかもしれません。
 
 洗礼を受けたのは30歳頃でした。当時の僕は頭でっかちのクリスチャンであったように思います。しかし、数年後のある聖書の勉強会の祈りの時間に「精霊が僕の体の中に入った」としか言いようがない体験しました。その時、僕はボーン・アゲイン・クリスチャンになったと実感し、ある種の喜びを覚えたのです。そして、僕は神はいると言い切ることができるようになりました。議論としてではなく信仰としてです。理屈ではなく、実体験としてです。
 
 イエス・キリストが僕の身代わりになって十字架に架けられて、復活したことによって僕の血は清められ、絶対的な信仰を得ることができました。今日はイエス・キリストの降誕の記念日です。アーメン。

子供のためのイエス·キリストの物語-日本語
(大変わかりやすいドラマです)
https://www.youtube.com/watch?v=l0Yv_W_jMTs
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