映画「サラの鍵」 ― 2012/02/01 22:41
http://www.sara.gaga.ne.jp/
(ReviewsやEssayをご覧ください)
ヴィシー政権(第二次世界大戦中のフランスの政権1940年 - 1944年)下の1942年のパリ。ドイツ・ナチスの支配下に置かれユダヤ人狩りがなされた時代の出来事と今の時代とが前後しながら描かれています。舞台はパリとNY・ブルックリンです。
ユダヤ人収容所から逃げることが出来た少女サラのその後の人生を今に生きるジャーナリスト、クリスティン・スコット・トーマスが追います。同名の小説(タチアナ・ド・ロネ著 新潮社)の映画化です。
真実を知ることに「覚悟は出来ているか」と問われています。
女優のクリスティン・スコット・トーマスの「ずっとあなたを愛してる」(DVDあり)という作品も僕は素晴らしいと思います。彼女は英国生まれですが19歳でフランスに転居し、英仏語が堪能な女優です。
http://www.youtube.com/watch?v=R3Mhge0zOCw
両方とも「楽しい」という類の作品ではありません。しかし、心に響く、生涯忘れることが出来ない映画だと思います。
まだでしたらお勧めです。
写真は夕闇迫る札幌駅南口方面
日々・その1 ― 2012/02/02 23:44
日に一回か二回は外出をします。その度に携帯電話を持ったかを確認すると同じようにカメラがポケットに入っていることを確認して出かけます。
最近はポケットに入るサイズのカメラの性能が向上し、必ずしも重くてかさばる一眼レフカメラを持って歩くことをしなくても大方事足りるのは嬉しいことです。年齢と共に重いカメラを持ち歩くのが億劫になっていますから・・。
散歩をする道は幾ら工夫をしても結局は何度も歩いている通りです。また、出かけるたびに「傑作」が撮れるわけではありません。しかし、それでもコートのポケットに手を入れたときにカメラがないと不安になります。何が不安かと言われそうですが、いい光や、面白い光景に遭遇しても撮れない、という不安です。
毎日一枚でも二枚でも撮り続けていれば多少は進化し上手くなれるのではないかという思いもあります。
日々・その2 ― 2012/02/03 22:02
http://poetry-shi.jp/
僕はこの映画はもとよりイ・チャンドン氏のことも知りません。しかし、記事を読みながら僕が写真を独学していた学生の頃に何を考えていたのかを鮮明に思い出していました。
「恐らく若い頃から『言葉や文章は現実に対して何が出来るのか』という問題を考え続けていたこと、~」と氏は記者に語っています。
僕は「写真は現実に対して何が出来るのか」という大それたことを考えていました。
イ・チャンドン氏は次のようにも語っています。
「~言葉と沈黙とで構成される詩は、余白がなくては成立しない。言葉は多くないが、真理を語ろうとしている」
これを読みながら僕は「ウ~ン、余白なんだよね。写真にも余白が大事。その余白に何を語らせるかが肝心なところ」と独り言を呟いていました。
写真は深夜のすすき野の路面電車。
日々・その3 ― 2012/02/04 22:01
当時、家には「アサヒグラフ」というグラフ雑誌が毎週届けられていました。これは写真で世界の様々な出来事を報道する週刊グラフ誌でした。アメリカの「ライフ」と同じようなものです。さすがライフを見ることはありませんでした。
玄関の引き戸を開けて「ちわ~、置いていきま~す」と言っていつもの本屋がこのアサヒグラフを玄関の上がり口において行くと家族の誰よりも先に僕が見ていたように記憶しています。座敷に腹ばいになってページを繰るときはインクの匂いに興奮をしたのを覚えています。無論、全てがモノクロの写真でした。それは僕が青森の家を出て東京へ行くまで、つまり中学校2年まで続きました。東京に出てからは少ない小遣いで買うだけの余裕はありませんでしたから本屋で立ち読みをする程度でした。
当然兄たちも「アサヒグラフ」を見ていたはずですが写真に興味を持ったという話は聞いた事がありません。同じ環境にいても興味の持ち方はそれぞれなものです。
写真:すすき野駅前通りでは雪まつりの氷像造りが盛んにおこなわれていました。
日々・その4 ― 2012/02/05 22:25
僕が10歳であった1955年ころのことです。2人とか3人乗りの、車の前面が開閉できる、風船を膨らましたような形をした前輪が2輪、後輪が1輪の3輪車でした。当時の青森市内で走っていたのはルノーやオースチンという小型輸入車でした。
僕はその三輪車の写真を見ながら、将来はこんな車を運転してみたいナと思い、寝てもさめても自分が運転していることを夢に見ていました。
その夢のような車にブライトンでお目にかかったときは、僕は本当に「ひゃー!」と思いました。あの夢の車が本当に街を走っているのを見た時は、僕は現実にイギリスまで来たんだ思い、深い感動を覚えました。
僕はもしかしたらと思い、インターネットで検索をしてみました。便利な時代になったものです。下記のサイトに年式が1962年の写真が載っています。年式は僕がアサヒグラフで見たのより数年新しいのですが、まさにこれでした。
改めて写真を見て、小学生の時の感動とブライトンで本物を見たときの嬉しかったことを思い出しています。
トロージャン 200
http://ichiba.geocities.jp/seiyaa_desk/torojan200.html
写真はすすき野の客引き
日々・その4 ― 2012/02/07 01:31
青森の家には相変らずアサヒカメラは毎月配達されていたので、父が読み終わったのを郵便で送ってくれていました。僕が当時持っていたカメラは父のお古のレンジファインダーの簡単なカメラだけでした。
写真部の部室は暗室のある校庭の片隅にあった小さな小屋でした。先輩部員は3年生たった1人くらいしかいませんでした。そこに1年生の僕と茂沢君と遠山君が加わり少し賑やかになったと顧問の先生が喜んでくれました。
茂沢君と遠山君は一眼レフのカメラを持っていて僕はすごいなと思ったのを思い出します。この二人はあまり暗室作業の勉強には熱心ではなく、もっぱら僕が暗室を占有していました。3年生の先輩がフィルム現像や焼付けの仕方を教えてくれましたがそれも2学期頃まででした。3年の先輩は受験勉強が忙しくなっていました。
2年生になった頃だと思いますが僕は小遣いをためてやっとのことで中古のペンタックスの一眼レフと標準レンズを新宿カメラで手に入れてスナップ写真を撮り始めていました。
2年生になると1年生の部員が数名入ってきてますます「写真談義」が楽しくなってきました。3年生の部員はいませんでしたから2年生の僕らの天下でした。
僕の高校はブラスバンドが盛んで都内では有名でした。年に一度は杉並区の公会堂のようなところで一般公開の音楽会を開いていました。楽団員はみな白のブレザーのいでたちで演奏会に臨みました。ブラスバンドの定番以外にジャズも演奏していました。
そこで僕は演奏会の様子を撮影し、その夜に学校に戻り暗室で四つ切に10枚ほどプリントをして、翌朝、皆が登校する前に学生ホールに貼りました。演奏会の様子を「速報」したのでした。先生方は無論ですがブラスバンド部員の皆が喜んでくれました。
それ以来、地区の陸上大会、野球大会なども「取材」し「速報」を続けました。その辺から写真を見てもらい喜んでもらえることの楽しさや「速報」の価値のようなものが分かったような気がします。
札幌創成川沿いの裸婦像。冬にみると本当に寒そうで気の毒な気さえしてきます。
日々・その5(映画:家族の庭) ― 2012/02/07 23:40
http://kazokunoniwa.com/
トムとジェリーという、多分50歳代後半の夫婦と彼らの周りにいる人々の日常生活を中心に描いています。特別な事は何も起こりません。トムは地質学者、ジェリーは心理カウンセラーとして働いています。弁護士の一人息子は未婚ですがすでに家を出ています。トムとジェリーは自宅から少し離れたところに家庭菜園を借りていて野菜作りを楽しんでいます。折に触れて友人や知人を家に招いて食事を一緒にするという、ごく普通のイギリスの、経済的には中流の夫婦です。
僕は60年代後半にイギリスに住んでいました。そのときに何度もイギリス人の家庭に招かれて食事をご馳走になったことがあります。僕にはこの映画に描かれている家も懐かしく、間取りも分かるような気がしました。
1階の通りに面した部屋は大きめの居間です。ソファーやテレビが置かれていると思います。それに続いて食事をする大きなテーブルが置かれている部屋があり、その奥には台所です。台所は裏庭に出るドアがあります。好みによっては真ん中の部屋と台所の壁を取り払って大きなダイニングキッチンにしている間取りもあります。玄関からすぐに直線の階段があります。2階には、通りに面した夫婦用の寝室、子供用の部屋が2つ、トイレと風呂場の一部屋というのがイギリスのどの街に行っても見かける典型的な「長屋」風の家です。映画に出てくる家は多分、百年くらいは経っている家だと思います。
映画での年代は2000年ごろではないかと思いますが、家の内装や衣類、食器までが僕の知っているイギリス人の家庭の雰囲気をかもし出していました。僕は映画を観ていて、この家の匂いも分かると思ってしまいました。
この作品には美男美女は登場しません。しかし、超一流の演技とはこんなものだと思わせる素晴らしい作品です。まだでしたらお勧めです。
監督は「ヴェラ・ドレイク」(DVDあり)のマイク・リーです。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7129/
札幌では雪まつりが始まりました。
日々・その5(アマチュア無線3級) ― 2012/02/08 21:03
それまで勤めていたホテルを辞めて英語学校を開設して1年くらいが経っていました。当時はアメリカの英語には全く馴染みがありませんでした。無論、アメリカにも行ったこともなく、いつかは行けるだろうと考えたこともありませんでした。しかし、英語を教え始めて気付いたのは、受講生の英語知識はアメリカの英語らしいということでした。特に強く感じたのは熟語についてでした。参考のためにNHKの教科書なども読みましたがやはりアメリカ風の英語でした。そこで僕はアメリカの短波放送を聴いて勉強をしようと思い立ちました。
僕は小学5.6年生の時にはゲルマニュームラジオを作っては壊しをやっていました。「子供の科学」という雑誌を見ながら近所の模型店で小遣いで買える部品を調達し2度、3度と試みましたが何も聞こえませんでした。半ばあきらめていた頃に、父は東京出張の土産にとキットを買ってきてくれました。それは冬休みの時期でした。コタツに入り、コイルを巻き、半田ごてを使って、朝から夕食の時間までかかり組み立てました。いよいよ儀式のときがきました。アンテナをつなぎ、イヤフォンを耳に当てて、バリコンというダイヤルを少しづつまわしました。聞こえたのです。NHK第1放送や第2放送が。僕は思わず「聞こえる!」と大きな声を出しました。台所にいた母はびっくりしていました。父が仕事から帰ってきたので早速に報告をしました。夕食までは少し時間がありました。父は「母さんから茶碗を借りてきなさい」といいました。そして、小さなイヤフォンを茶碗の中に入れました。そしたらスピーカーほどではありませんでしたが大きな音で放送が聞こえました。僕はなるほどと父の知識に感動をしました。父と一緒にバリコンをまわしながら聞きました。以来、家中のラジオを「修理する」と言ってはいじりまわし、壊しました。(続く)
写真はすすき野のあるビルの看板。「眠らない街ススキノ」の夜の人口は約8万人と言われていますが減少傾向です。
日々・その5(アマチュア無線3級-2) ― 2012/02/09 23:18
父は「忠、また『修理』したな!」という程度で叱られることはありませんでした。父はハイカラな物というか新しもの好きでしたから僕がラジを壊すと新しいのを買えると思ったのではないかと大人になってから思いました。
やがて中1になって三橋君と言う電気に恐ろしく詳しいのと同級生になって刺激をされました。彼は僕の質問に答えられないことは一度もありませんでした。そのときに知ったのがアマチュア無線のことでした。父が岩波文庫の「アマチュア無線」という本を見つけてくれました。国内はもとより世界中のアマチュア無線家と短波で話が出来るという説明にワクワクして、むさぼるように読みました。当時は2級と1級しかなく国家試験問題の内容は専門的に電気工学や無線工学を勉強をした人でなければ合格は到底無理と思えるレベルでした。今も同じです。
さて、数年たち、高校へ進みました。前にも少し書きましたが僕は写真部に入りました。そのときに同じ1年生で一緒だったのが茂沢君でした。彼もまた電気は何でも分かる人間でした(後日、彼は大学で数学の研究者になりました)。何かの機会に彼は当時の電信級アマチュア無線の資格を持っていて、神保町の彼の家に簡単な無線局があるという話になりました。僕は文字通りびっくり仰天、早速彼の家に遊びに行きました。
いろいろと教わり分かったことは最近制度が変わり、電話級と電信級という資格が新設になったということでした。そして、茂沢君曰く「チョッと電気を勉強したら電話級は取れるぜ」。
早速に教科書を買ってきて勉強をし始めました。しかし、完全に文系で数学や物理が大不得意の僕は全く歯が立ちませんでした。同時進行で写真の勉強もやっていたので苦手意識が先行したアマチュア無線のことは次第に忘れました。(続く)
写真はすすき野のイルミネーション。
日々・その5(アマチュア無線3級-3) ― 2012/02/10 23:06
その日はとりあえず当初の目的である短波ラジオのTRIO R-1000を買って帰りました。8万円以上もした高価な買い物でした。家に帰って早速にBBCやVOAを聞きました。そして、アマチュア無線をも聞いてしまいました。
翌年の春に僕は念願だった読売新聞社のカルチャーセンターの英語教室を受注しました。そこには英語のほかにも様々なコースがありました。受付で何気なくパンフレットを見ていたら「アマチュア無線電話級講習会」というのがありました。どぎっとしました。受付の女性は「夏休み期間に小中高校生向けのを実施しますが大人の方でも受講できます」と言うのです。僕はここでも「小学生でも・・」と聞かされて少々カチンときました。高校生のときに少しだけ見た参考書の難しさは頭に残っていました。理数系科目への苦手意識はそう簡単には払拭できません。で、何故か僕は自分には無理な勉強であることを納得させなければならないと思いました。そこで受付譲に、申し込む前に講師の先生とお話が出来るかと尋ねました。
教えてもらった電話番号に電話をしたらいきなり「北大工学部〇〇科です」と。一瞬うろたえましたが講師の先生の名前を言ってつないでもらいました。説明では「無欠席、無遅刻で勉強をしてくれれば間違いなく免許を取れるように協力をします」というのです。
講習会の参加者の40名くらいは小中高校生ばかりでした。僕は「これはまずい」と思いました。ここで合格できなかったら「恥だ」と思い込んでしまったのです。そんなことで強い緊張感をもって、講習会通いを2週間くらいだったと思いますが続けました。電波法は百点取れると思いましたが、やはり無線工学の計算問題には手を焼きました。
講師の先生は北大の院生でした。親切に、理解の仕方ではなく暗記の仕方を教えてくれました。
終了試験が終わり、小中高校生はさっさと帰宅しました。僕は自己採点をしたいと思い廊下で教科書を見ていました。そこに先生が通りかかり「大坂さん、大丈夫ですよ」とおっしゃってくれました。「え?」と僕。「さっき、ちょっと解答用紙を見ましたから」と。
という訳で二ヶ月ほどして免許証が届き、開局のために機械を購入しました。12月には無線局の免許状とコールサインが届きました。僕は翌朝6時前に起きて北米の方向にアンテナを回してCQ CQ CQ This is JH8XYBと声を出しました。
市内では除雪と排雪が盛んに行われています。僕は重機の作業を見ているのが大好きです。
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