日々・その42012/02/07 01:31

 そもそも僕が高校で写真部に入ったのはどうしてだろうかと考えてみましたがどうも思い出せません。青森でも東京でも中学では写真部はありませんでした。高校には文芸部もありましたがこれには何故か入部しませんでした。

 青森の家には相変らずアサヒカメラは毎月配達されていたので、父が読み終わったのを郵便で送ってくれていました。僕が当時持っていたカメラは父のお古のレンジファインダーの簡単なカメラだけでした。
写真部の部室は暗室のある校庭の片隅にあった小さな小屋でした。先輩部員は3年生たった1人くらいしかいませんでした。そこに1年生の僕と茂沢君と遠山君が加わり少し賑やかになったと顧問の先生が喜んでくれました。

 茂沢君と遠山君は一眼レフのカメラを持っていて僕はすごいなと思ったのを思い出します。この二人はあまり暗室作業の勉強には熱心ではなく、もっぱら僕が暗室を占有していました。3年生の先輩がフィルム現像や焼付けの仕方を教えてくれましたがそれも2学期頃まででした。3年の先輩は受験勉強が忙しくなっていました。

 2年生になった頃だと思いますが僕は小遣いをためてやっとのことで中古のペンタックスの一眼レフと標準レンズを新宿カメラで手に入れてスナップ写真を撮り始めていました。
 2年生になると1年生の部員が数名入ってきてますます「写真談義」が楽しくなってきました。3年生の部員はいませんでしたから2年生の僕らの天下でした。

 僕の高校はブラスバンドが盛んで都内では有名でした。年に一度は杉並区の公会堂のようなところで一般公開の音楽会を開いていました。楽団員はみな白のブレザーのいでたちで演奏会に臨みました。ブラスバンドの定番以外にジャズも演奏していました。
 そこで僕は演奏会の様子を撮影し、その夜に学校に戻り暗室で四つ切に10枚ほどプリントをして、翌朝、皆が登校する前に学生ホールに貼りました。演奏会の様子を「速報」したのでした。先生方は無論ですがブラスバンド部員の皆が喜んでくれました。

 それ以来、地区の陸上大会、野球大会なども「取材」し「速報」を続けました。その辺から写真を見てもらい喜んでもらえることの楽しさや「速報」の価値のようなものが分かったような気がします。

札幌創成川沿いの裸婦像。冬にみると本当に寒そうで気の毒な気さえしてきます。

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