僕の45年間ー722011/02/01 21:14

 僕は翌日の月曜日から「皿洗い求む」の張り紙を探してコペンハーゲンの街を一日中歩き回りましたが全く駄目でした。せっかく電車賃をかけて街に出てきたのだからと思い、歩けるだけ歩いて探しました。昼食は市役所前の広場に数軒出ていた屋台のホットドッグを一つと決めて我慢をしました。夕方ユースホステルに戻ると腹ペコでした。それでも寝床があることの安心感は気分を軽くしました。

 週末になると何人もの日本人の人たちが遊びに来ていました。月~金は一所懸命に働いて、週末には日本語で話したくなるのか、人が恋しくなるのかと僕は思っていました。
 その中にAさんがいました。残念ながら顔を思い出せるのですが名前を思い出せません。27~8歳の細身の男性で、郊外のある工場で働いていると話してくれました。彼は「俺は自給が5ドルだ。ここに居る連中は1ドルか1.5ドルくらいだと思う。」と給料の話になったときに披露しました。「俺はね、デンマーク語もドイツ語も英語も分かるからね。俺は日本語で言うと職場の主任みたいなものさ。上司から指示を受けて、部下に指示を出すというわけさ。つまり責任がある仕事が任せられているから給料が高いんだよ。」と周りにいた日本人に向かって話していました。普通に聞いていれば嫌味ったらしいのかもしれないのですが、当時の僕には真理に思えました。つまり、言葉が自由になればなるほど美味い飯を食うことが出来るという真理です。

 その後毎週末、Aさんはユースホステルに顔を出しました。キャフェテリアで昼食を一緒に食べながらいろいろな話を聞かせてもらいました。Aさんはアメリカの南部の大学を出たそうで「俺の英語は南部訛りの英語だ。時々、お前の英語は分かんねえって言われるけどよ。しょうがねえよな」と言っていました。僕は「なるほど、英語にも訛りがあるんだ」と合点しました。そこで「Aさん、訛りのことを考えると、どこで英語を勉強するのがいいんですか」と訊ねました。すると「そりゃ、British English英国英語でしょ。まして、ここはイギリスに近いんだからさ。スコットランドの方まで行っちゃ駄目だよ。俺みたいに訛りがきつくなるからさ。まあ、ロンドンから南じゃねえの」と教えてくれました。

写真はパリ北駅構内。2005年12月

僕の45年間ー732011/02/02 23:29

 ユースホステルに寝泊りをするようになって3週間くらいがたったころでした。朝食を終えて自分の部屋に戻り日米英会話の本を開いていたときでした。こけしさんが部屋に来て「大坂君、アルバイトはまだなんでしょ。ここでアルバイトを募集しているよ」と教えてくれました。「早い者勝ちだよ!」というのです。僕はベッドからガバっと起き上がって「本当!」と言いながら階段を脱兎のごとく駆け下りて事務所に行きました。
 いつも受付に居る縮れ毛のお兄さんが募集の紙をセロテープで貼っていました。「Help Wanted従業員募集」と書かれていました。僕の後からこけしさんも付いてきてくれ、「これよ、やる?」というので僕は「やりたい!」と叫んでしまいました。
 縮れ毛のお兄さんが募集の紙を貼り終わる前に「OK」といって貼るのを止めました。それは日曜日でこけしさんがキッチンの手助けをしているときに募集が決まったらしく、いの一番に僕に知らせてくれたのでした。
 縮れ毛のお兄さんの後について事務所の奥にこけしさんと一緒に行き、名前を確認して、仕事の内容と賃金のことを聞きました。細かいことはこけしさんが通訳をしながら説明をしてくれました。
 朝、昼、晩の食後の皿洗いとキッチンの清掃が主な仕事でその他の時間は好きに使ってよいということと、週給が50クローネで宿泊費と3食が無料という条件でした。僕は小躍りしたくなるような気分でした。縮れ毛のお兄さんには無論ですがこけしさんに何度もお礼を言いました。
僕はこれ以上これで手持ちの資金を減らすことなく、給料までもらえるという、夢みたいなことになり興奮しました。50クローネは記憶が正しければ当時は2500円だったと思います。
 
 仕事はその日の昼食からということになり、前払いしていた宿泊費は返金してくれました。僕はバンザーイと叫びたくなりました。こけしさんも一緒に喜んでくれました。ロビーに出てこけしさんと一緒にコーラを飲みながら乾杯をしました。

 写真はパリ北駅付近のパン屋さん。2005年12月

僕の45年間ー742011/02/03 14:40

 同室のジョンさんは相変わらず、フッフッと呼吸をしながら朝一番に腹筋運動をやっていました。彼は菜食主義者でした。牛乳とパンとチーズとりんごやトマトを日に3回、飽きずに食べていました。
「僕はソーセージが好きだからジョンさんのように菜食主義者にはなれないね」といったらクックックッと、仙人のようなひげもじゃの顔をしわだらけにして笑いました。
また、僕が英語の勉強をしていると会話の本を覗きこみながらいろいろと話しかけてくれました。
 「君は日本が好きか。数ヶ月したら日本に帰って元と同じように生活をするだろう。お父さんもお母さんも元気か。あ~、そう。それはいいね。しかし、僕は帰るところが無いんだ。それが悔しい。旅行者というのは帰る所があるから旅行者なので、僕のように帰る所が無い人間は旅行者とは言えない。I have no root.僕には根っこが無いんだよ。」と寂しそうに言うのです。浅はかな僕には「帰るところが無い」の意味が良く分かりませんでした。
 「僕は南アフリカ出身の白人であることがたまらなく疎ましい。いま、南アフリカで何が起きているか知っているか。知らないだろうな。世界中のほとんどの人々は知らないさ。あまり関心も無いかもしれない。しかしね、僕は知っている。白人によって黒人が差別されて虐待されて、それが終わることなく今日も明日も続いているんだよ。みんな同じ人間だよ。僕は小さいときから黒人の人たちが虐げられるのを見て育ったよ。僕には我慢が出来なかった。それでお金をためて出てきたんだ。そんな国を僕は故郷だとは思いたくないね。だから、僕の旅に終わりは無いのさ。何処も帰る所が無いんだから。自分の国を故郷だと言える君がうらやましいよ」
ジョンさんの目は遠くを見つめていました。


 写真はプラハの地下鉄駅で。2005年12月

僕の45年間ー752011/02/04 17:56

 僕の英語力でジョンさんの言いたいことが順調に分かったわけではありませんでした。辞書を何度も引きながら、少しづつ、想像力をたくましくして、彼の表情の悲しみに、僕自身も何度も憤りを感じながら、少しだけ南アフリカの状況が見えました。
 ジョンさんと話したのは1967年2月でした。幾度も写真を撮りに南アフリカへ行けたらと思いました。しかし、英語が不自由な僕が行っても大した写真は撮れないだろうなという気後れと、一歩踏み出す勇気に欠けていました。

 後年の1988年ころ「遠い夜明けCry Freedom」という映画作品を見ました。1970年代の南アフリカが舞台です。強い衝撃を受けました。
http://www.fnosta.com/20to/title/cryfreedom.html

 また、「マンデラの名もなき看守Goodbye Bafana」(2007年)という映画はマンデラ氏の27年間の獄中でのことが描かれている作品です。
http://mandela.gaga.ne.jp/about/

 
 南アフリカのことがTVニュースに流れるたびに僕は長髪で目元が優しいジョンさんのことを思い出します。1994年に獄中にいたマンデラ氏が大統領になり、南アフリカは大きく変わりました。もしかしたらジョンさんは希望を抱きながら帰国をはたしかもしれないと思っています。

 写真はクリスマスの夜のプラハの教会。2005年12月

僕の45年間ー762011/02/05 20:15

 週50クローネの賃金でしたが電車賃は何とかなったので昼食の皿洗いが終った後、街に出てアルバイト探しをしました。しかし、少し春めいてきた3月になってもアルバイト先は決まらず、相変らずユースホステルで皿洗いをしていました。
 
 仕事を探しながらコペンハーゲンの街を歩き回っていて気が付いたことがありました。
 一つは車椅子を使っている人を多く見かけたことです。東京にいたときにはめったに見かけることが無かったので、浅はかな僕は当初「コペンハーゲンには障害者が多いんだ」と思ってしまいました。しかし、よく考えてみると東京よりも人口が少ないのに障害者が多いというのは不自然だと気が付きました。
 コペンハーゲンは僕がいた1967年にはすでに車椅子利用者にとって外出がしやすい街だったのです。路面電車にしても鉄道にしても乗り降りが楽に出来るようになっていました。車椅子の人にとって利用しやすいと言うことは、同時にお年寄りや乳母車の利用者にとっても便利なわけです。
 車椅子の人が歩道を横切る際には段差があって容易ではありませんが通行人が気軽に声をかけて車椅子を持ち上げる手伝いをしていました。そんな様子を目撃するのは日常のことでした。
 自転車を電車に持ち込むと言うことも普通のことでした。それは自転車専用道路も同じでした。主要な道路は車道と歩道の間に自転車専用道路があり、歩行者の安全が確保されていました。
僕は市民の意識が違うのだなと思いました。

 1971年に東京に戻ったときにはコペンハーゲンほどではありませんでしたが車椅子の利用者を以前よりも多く見かけたような気がしました。日本でも障害者への意識が変わってきているんだと思いました。

 もう一つ大変気になったことがありました。それは僕の世代の若人の表情でした。何かしら無気力感を漂わせていたのです。僕は、衣食住が十分に足りて就職のことや医療のことを心配しなくてもよい社会に異論はありません。しかし、社会参加の目的意識が希薄になり、生気を感じさせない顔つきの若人が多くなるのは好ましいことでないような気がしました。

 このような文面の手紙をコペンハーゲンから友人に書いたのを思い出しました。

 後年、タイやカンボジア、ヴェトナム、ラオスを旅行したときには、青年たちの生気あふれる表情に圧倒されました。

 写真はプラハ中央駅(プラハ本駅)。第2次世界大戦時、多くのユダヤ人が連行された通路だと聞きました。

さっぽろ雪祭り2011/02/06 21:32

完成した雪像と記念写真を撮ろうとしている製作をした自衛隊員。
 恒例のさっぽろ雪祭りが2月7日から13日まで行われます。

 今、夜9時を過ぎたのですが拙宅の前の道路ではダンプカーやブルドーザーのエンジンの音が雄たけびをあげています。多分、大勢の雪祭り観光客がくるので除雪に忙しいのだろうと思います。
 が、僕はこの祭りをまじめに見たことが無いのです。例年、TVニュースを観て「あ、また始まったな」と思う程度でした。しかし、今回は、主な会場である大通り公園の近所に昨年転居したので完成前ですが見学に行ってきました。

 資料によると毎年国内外からおよそ200万人もの観光客が訪れ、経済波及効果は約268億円もあるそうです。詳しくは下記のサイトをご覧ください。
http://www.snowfes.com/

 そんなことで今日の札幌の観光産業の大きな目玉の「さっぽろ雪祭り」大通り会場の写真を数点。

さっぽろ雪祭りー22011/02/06 21:40


さっぽろ雪祭りー32011/02/06 21:41

たくさんの飲食店や土産物屋も会場をにぎやかにしてくれます。

さっぽろ雪祭りー42011/02/06 21:43

すすき野では「氷の祭典」が行われます。氷の中で泳いでいるのは本物の魚のようです。

僕の45年間ー772011/02/06 22:35

 4月のある日曜日でした。デンマーク語も分かるAさんが遊びに来ていました。「大坂君、仕事のめどは?」と声を掛けてくれました。「未だです」と僕が応えると、彼はユースホステルの事務所から新聞を借りてきて「仕事探し、手伝ってもいいよ。俺は明日休みだからさ」と言いながら求人広告の欄を読んでくれました。そして、「ありそうだな。電車で2~30分の郊外にある工場だ。何の工場かわかんないけどよ。試してみる?」というので翌日の月曜日の午後に工場へ出かけることにしました。
 Aさんとはコペンハーゲン駅で落ち合い、電車でリュンビューLyngbyという郊外の駅まで乗りました。目当ての工場は駅から徒歩で5分ぐらいのところにありました。
 当時の駅は無人で閑散とした、工場以外は何も無い風でした。
 Aさんは門のところに居た守衛さんに昨日の新聞を見せて何やら話しました。守衛さんの指差す方向には白いペンキを塗った平屋の建物がありました。「大坂君、この新聞を持ってさ、あの建物の受付に行ってみなよ」というのです。言葉がうまく通じなかったらどうしようかという不安はありましたがそんなことを考えている場合ではありません。僕は覚悟を決めて一人でドアを開けて入りました。アムステルダムでの経験が思い出されましたが、空振りならそれはそれでしょうがないなという気持ちになりました。
 入ったところは事務所ではなく工場そのものでした。シンナーの匂いが強烈に僕の鼻を刺激しました。通路を挟んだ両側で何人もの職人さんたちが塗装のスプレーガンで盛んにシュー、シューと塗装の作業をしていました。僕は鼻だけではなく目も痛くなるくらいでした。「こりゃ、大変なところにきたな」と思いながらも、OFFICEと書かれた奥の扉へ向かって歩きました。
 重い頑丈な扉の先は事務所でした。幸いにもシンナーの匂いはなくほっとしました。扉の近くにいた人にまた新聞を見せました。中年の男性職員が立ち上がって僕に椅子に座るように言いました。その男性はもう一人の男性職員と何やら話しをしてから「English?英語で?」と僕に聞きました。

*リュンビューLyngby
http://www.tripwolf.com/en/guide/show/200577/Denmark/Lyngby
ここをみると当時より大きく発展した街になっているような気がします。僕が働いていた頃は、店はタバコと新聞、デイニッシュペーストリーの自動販売機くらいしかありませんでした。

 写真はプラハ郊外のカレルシュタイン城へ行く途中の風景。2004年12月
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