僕の45年間ー96 ― 2011/02/25 20:51
僕は毎週の給料を、週末コペンハーゲンに出たついでに両替屋でドル紙幣に替えて、現金で貯めていました。ときどきそのドル紙幣をベッドの上に広げて「あと何ドルで1000ドル」とか「あと何週間で1000ドル」と呪文のように唱えていました。
それが「1000ドル、プラス100ドル、150ドル」となってきました。
いよいよアニータさんや下宿の犬ともお別れする時期だなと思いながらユースホステルへ行きました。そこで何気なくバイクのソレックスをほしい人はいないかなと誰とはなしに話したら、すぐに買い手が決まってしまいました。日本の人でしたが彼はすぐ欲しいというのです。商談はすぐに成立しました。その夜、僕は電車でリュンビューに戻りました。
もうバイクがないと思えばイギリスへの出発時期は決まったようなものです。翌日、工場の上司に仕事を辞める時期を相談し、2週間後と決まりました。
1000ドルは絶対にイギリスへ行ってからの費用に当てると決心していました。幸い、それ以上の資金ができたので電車でオランダへ行き、フェリーボートでドーヴァー海峡を渡ってイギリス入りを決行しようと決めました。
イギリスで降りた鉄道の駅はヴィクトリアステーションでした。パリの北駅よりも、コペンハーゲンの中央駅よりも大きく人が多く、出口が方々にあり、僕は完全におのぼりさんでした。
まずはインフォメーションを探さなければと思い、キョロキョロ360度見回しました。僕は後生大事に持っていた手帳に書いた住所を係員に見せて地下鉄を教えてもらいました。
聞こえてくる言葉はやはり英語でした。フランス語でもなくデンマーク語でもなく正真正銘の英語でした。僕は、よ~し、こいつをやっつけてやるぞと身震いを覚えました。戦いの始まりでした。
何とか目的の地下鉄駅にたどり着き、今度は通行人を捕まえて手帳をみせ、目的のフラット(アパート)へ向かいました。曇り空のどんよりとした午後でした。
写真はプラハのユダヤ人墓地。先の大戦中、中央ヨーロッパで唯一大虐殺(ホロコースト)を生き延びたとされるプラハのユダヤ人街にあります。古いのは15世紀頃のお墓だそうです。

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