僕の45年間-222010/04/02 21:37

カンボジア号はセイロン(スリランカ)の後、インドのボンベイ、今はムンバイと呼ばれている大きな港町に向かっていました。
船室は益々暑くなってきていました。皆、甲板に出て涼を求めていましたが所詮はどこの日陰に入っても暑さはあまり変わらなかったように思います。一番上の甲板にはさほど大きくはないプールがありました。僕は泳げないので眺めているだけでしたが、面白いことを発見しました。プールで遊んでいるのは、多くは白人でアジア系の人は皆無ではありませんでしたが多くはありませんでした。アジア系の船客が絶対的に多いのにです。
それは夜のダンスパーティーの場合も同じでした。
船客の夕食が終わり、給仕をしてくれる船員達も食べ終わった8時半頃から毎晩、食堂でダンスパーティーが開かれました。
船員が楽団員となった急ごしらえのバンドが生演奏をして、夜遅くまで繰り広げられました。そこでもやはりダンスを一番楽しんでいるのは白人達でした。
プールで遊ぶも、ダンスパーティーで楽しむも、西欧文化だったのかもしれません。
僕はというと、やはり下戸でダンス音痴の画家の村上さんとジュースをちびりちびりとストローで飲みながら、時々バンドの音で聞き取れないながらもゲイジュツについて熱く語り合っていました。
「壁の花」という言葉を知ったのもこの船上でした。
語源ははダンスに誘われず壁際に立っている女性を指す「Wall Flower」のようですが・・。

船がボンベイに近づきはじめるとインド系の船客たちは幾つもの大きな荷物の整理やら梱包に忙しくなり始めました。

写真は焼き魚をご飯に載せた弁当を食べる女性
(カンボジアのシュムリアップ)

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