村上肥出夫ー52016/03/27 00:44

 長い記事です。画像でお読みいただくよりは楽かと思い、文字お越しをしました。
 是非お読みください。

 なお、今年の4月10日から5月29日まで、長野県東御市にある梅野記念絵画館・ふれあい館で展覧会が開かれるそうです。
http://www.umenokinen.com/index.html



「十字路が見える」北方謙三 週刊新潮 2015.12.10
 私が通った学校の窓の外は、芝公園であった。その木立のむこうに、ホテルが建設されたのは、東京オリンピックの前であった。開業記念かなにかで、ダリ展が開催され、私は友人たちと観に行った。相当の人出であった。私はちらりと見て、これは絵ではない、と思った。絵でありながら、絵ではない。友人たちは、シユールレアリズムについて、小声で囁き合っていた。みんなショックを受けたょ、っだった。私も、ショックを受けた。

 翌日、私は密かにひとりで観に行った。なにを狙っているのだ、と思った。つまり、なにかを狙った絵というふうに見えたのだ。しかししばらく立っていると、狙いなどではない、という気もしてくる。

 結局、その時はなにもわからなかったのだろう。後年、「内乱の予感」を眼にして、この画家の根もとにあるのは、理由もはっきりしないような恐怖なのではないか、と思った。この絵にはほかのタイトルもあったが、私にはしっくりこなかった。それ以上のことは、言葉にしにくい。まあ、絵に解説は、ほんとうには必要ないとも思う。

 ダリは、フェルメールを高く評していた。光とか構図とか、いろいろ言えるのだろうが、感性のどこかが合つたのだろうと思つた。もしフェルメールがダリの絵を観たとしたら、やはり強く感応しただろうか。

 私の友人に、村上肥出夫という画家がいる。大学生のころ親しくなったが、十四、五歳は年長であった。会ったのは、神田駿河台下の、喫茶店であった。躰が臭い、むさくるしい親父だ、と私は思つた。むこうも、生意気な学生だ、と思っていただろう。躰が臭いのは風呂に入らないからだ、とあとで知つた。大学のそばの喫茶店で、大学側によって校舎が閉鎖されれば、行くところがなくそんな喫茶店にたむろしていたのである。学生側の手で封鎖することもあり、それは占拠で、校舎の中にねぐらを確保していた。いまは歴史用語に近くなっている学園紛争の時代で、そんなことはめずらしくもなかった。

 その喫茶店のウェイトレスが好きらしい、と店のママから聞いて知つた。画家であることも知つた。襤褸のような服が、そう思うと恰好よく見えた。なんとなく、話すようになつた。眼差しに濁りがないのが、印象的だった。それから、口から出すわずかな言葉が、不意に彼の周囲で躍つたりする。つかまえようとすると、なにかイメージのようなものが残るのだった。臭かったが、私は好きになつた。言葉に詰まると、そのあたりにある紙片に絵を描いたりする。デッサンであるが精緻ではなく、はじめから噛み砕かれている、と思った。政治の季節の中にいる学生であった私は、論破のための議論をする傾向があり、何度も彼を追いつめ、 多分、傷つけた。小僧に言われたことでも、気にする人だったと思う。 言葉に窮した時の眼が、いつも哀しげだった。絵画論をやり、社会論をやり、人間論をやり、恋愛論をやった。好きなら、なぜあの女とやってしまわないのだ、とまで私は言い、彼は哀しげな表情で、小さく頭を振っていた。

 議論にならなかったのは、ヘンリー•ミラーの話をした時だ。なにを話しても、意見が合ってしまうのである。そのころはまだ行つたことがなかったパリの、放浪者の話などをすると、彼は自分の体験としてそれを語り、私を羨ましがらせた。新潮社から全集が出ていて、彼も私もそのすべてを読んでいた。

 なんだ、あんた、臭えなあ、と言つたやつがいて、私はそいつを店から蹴り出した。そんなことしちゃ駄 目だよ、と彼は哀しそうに言つた。そのころ、臭いも私にとっては絵のうちになっていたのだ。何枚か、絵を観た。老舗の画廊の世話になっていて、そこの社長の部屋で、絵を描いたりしていた。指さきが絵の具だらけで、社長はそれを眺めながら、大相撲の中継などに眼をやっていた。 村上肥出夫の創作の秘密は、絵の具だらけの指さきにあるのではないか、と石川達三が書いていた。気力を与えられる絵だ、といった意味のことを、川端康成が書いた。

 デパートで大規模な個展をやり、放浪の天才画家としてマスコミに頻繁に登場し、いわばブレイクしたかたちになつた。変つたところと、変らなかつたところがある。臭いのは、変らなかった。眼が澄んで哀しげなのも、変らなかつた。時々、大きなことを言つた。そこに俗なものが、剝き出しで見えることもあつた。一夜明けると天下のバイロン、という 状態だったのだ。金が欲しい、もっと有名になりたい、というような俗性を、私は非難しようとは思わなかった。それも、人間なのである。俗性と純粋性が混在したまま、彼は寵児となつた。そして、描く絵は変らなかった。もてはやされる部分だけを、画風の中で拡げていく、という器用さはなかった。惚れたウエイトレスは、画廊の職員となり、ほとんど婚約者といたっ感じだったが、最後の一歩が押し切れず、別れることになつた。

 ほかにもいろいろあり、彼は岐阜の山中にアトリエを建てて籠つた。 東京での個展など、ちよつと難しいという情況になったようだ。私はといえば、没原稿を量産する日々の中
にあり、折々の通信以外、直接会うことは滅多になくなつていた。

 若いころの、友人のことを書いている。画家の話を書いていたから、思い出したというわけではない。実はいくつかのところで、村上肥出夫については、書いてきた。もつと評価されるべき画家だ、と思つているからだ。時折、新聞に取りあげられることがあるし、絵の好きな人で、熱心なファンもいる。

 だから君、ちょっとだけこの画家の名を、頭に留めておいてくれよ。私の叔父が絵画史に銘記されるべきかどうかは、甥である私には言えないが、村上肥出夫は、異端の称号がついたとしても、銘記されるべきだ、と私は思つているのである。

いまでは、毎年画廊で個展が行われるようになつている。一緒に、行ってみるか、君。

<朽ち果てずに絵はそこにある>
 パリでは、どういう場所が好きか、と訊かれてもいささか困る。そんな 話題になつた時は、ラテン区と答えたりするが、六〇年代の五月が 頭にあるからである。フランス全土が麻痺するような、労働者、学生の蜂起であった。さまざまな側面があり、日本の学生運動にも影響を与え、神田カルチェ•ラタン闘争なるものもあり、私は現場にいた。神田の学生街であったことだから、かなりの学生はいたのだが、神田、もっと細かく言えば、駿河台限定だったようなところがある。

 ラテン区には、二、三度行ったが、 特に好きになることはなかった。パリでは、ビクトル•ユーゴ通りの小さなホテルが、かつては定宿だった。 歩いて一時間ほどで、クリシーであ る。私は何度かクリシー広場まで行き、頹廃と無闇なエネルギーが入り混じった雰囲気を求めた。それはやはり、映画の中にしかないものだった。『クリシーの静かな日々』である。 七〇年に作られた、あれである。ビデオも手に入らない。どうしても、 観たいのである。ツタヤさん、なんとかしてくれ。

 クリシーからは、一度、手紙が来た。ヘンリー•ミラー好きの、村上肥出夫からである。ほかの街からも来たが、クリシーだけは、印象に残る。手紙は、筆ペンで書き殴つてあり、ほとんど読めない。ただ、ホテ ル名と部屋番号と金額だけは、呆れるほどはっきり大きく書かれていた。 金を送ってくれないか、という手紙 なのだ。

 短い時期、寵児であった村上肥出夫は、やがて中央画壇から追われたか背をむけたかして岐阜の山中に籠ったが、それでも何度かバリへ出かけたのだ。行ける金を持つていれば、 行つてしまう男である。帰る金はなんとかなる、と思つてしまう。私は本を出版して十年が経ち、多少の財布の余裕はあった。送っても、届い たという返事はなかつた。

 私の家の書庫に、同じエッセイ集 が二冊ある。『パリの舗道で」という、村上が書いたものである。一冊は、 出版当時、私が自分で買った。もう 一冊は、岐阜で二十年ほど前に貰ったものだつたと思が、挿入された線描だけの絵に彩色されたものである。パリの話というより、パリから母親に宛てた手紙の形式で、若いころの東京の生活が書かれている。 豊かな才能は多分にしてそうなのだが、視野が狭い。そして、自己肯定的である。橋の下で乞食のような生活をしていても、それが美しいことなのだ。寵児であった村上には、そうだつたのだろう。中央に背をむけてからは、それは痛いことにしかすぎず、線描に彩色させたのだろうと思う。中央に背をむけても、もう一 度東京で華々しくやりたいという、 俗な野心と、悲しいほどの純粋な絵の魂が感じられ、生の彩色は絵の具の手触りも私は悲しく感じる。

  何度か、東京に出てきた時に会った。はじめは無言である。スケッチ ブックに、私の顔を筆ペンで描いて渡し、黙ってうつむいていたりする。 なにをして欲しいのかと訊くと、ようやく口を開き、レンタカーを貸してくれないかと訴える。なぜか彼は、国際免許証だけを持って、借りに行 つているのである。朝の港を見るために、車が必要なのだという。まともに運転ができるのかどうかもわからない。酒を飲まない彼に、私はウィスキーを呷りながらつき合い、 明け方、芝浦の埤頭へタクシーで行った。彼はスケッチをするでもなく、 海に尻をむけて前屈の姿勢になり、 股の間から港を眺めていた。潮風に 当たって酔いを醒ましている私は、いないが如くである。まともな光景ではなかつただろう。

 深夜に呼び出されて行くと、舗道 に停めてあるバィクに跨がり、ぶんぶんと声を出していた。それが族バイクにしか見えなかつたので、私は慌てて村上をひきずり降ろし、まだ看板に灯がある店に収容した。しかし、持主が見たら殴り倒すかもしれない、というのは私の感覚で、村上にはなんでもないことだつたのだろう。私は、パリの娼婦に、裸の絵を描かせてくれとは、決して言えない。 描かなければならないなら、かなりの金を渡す。無料であのパリのしたたかな娼婦が服を脱ぎ、ポーズをとつた。そこには、なにかがあつたはずだ。それがなにかを、私は最後まで見定めることはできなかつた。私の凡庸なところで、村上の非凡さを理解できなかつたのだろうといまも思つている。

 岐阜の山中のアトリエが、燃えた。なぜ燃えたのかは、わからない。そばに立つていた村上の身なりは、ほとんど女装に近かつたという。惚れたウェィトレスに、洒落たコートをパリで買つてきて、同じものを嬉々として着ていた、数十年前の村上を 思い出す。彼女に対する思いが、いまだに残つているのだと、私はその話を伝えられた時に思つた。
 
 村上肥出夫は、そのまま精神病院に収容された。精神病院から手紙が来て、花が欲しいと言われた時、私はアレンジの花を届けた。光が欲しいと言われた時は、なにも届けられなかつた。そして音信はなくなつた。

 会いに行こうと思えば、会える。 しかしそれは、奇異なものを見たいという、私の救い難い俗な欲望にすぎず、絵の魂は精神病院にはない。
 村上は、私に何点かの絵をくれた。 その中の一点は、フォーヴィスムとも違う、見事な色彩の世界である。 私は、村上の絵を、一点も買わなかつた。買うべきものではない。私にとつては、そうだつたのだ。私は、その色彩の世界に入りながら、酒を飲み、勝手に好きなことをやつてろよ、と眩く。絵は、所有してはならないのだ。本は何万冊もあるが、絵はそれ一点のみで、手もとにあれば、 一時的に預かつている、と思い定めるしかないのだと思う。
 
 若いころ、影響し合つた、ある画家の話を君にした。彼はまだ、病院で生きている。それは、肉体が生きているということで、絵の魂は、いま思うと、アトリエが焼失した時に死んだのである。だから、彼は死んでいる。

 絵は残っているのだよ。素晴しいものもあれば、駄作もある。天才だつたのかどうか、酔うたびに考える。 君は、私のことを考えるなよ。
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