僕の45年間ー802011/02/09 13:02

 パリから一緒に旅行をしていた高橋さんはすでにユースホステルを引き払っていました。デンマーク人女性と知り合いになり「俺さ、女ができたんだ。その人のアパートに住むことにしたから」と。「またな」と言って白いスーツケースを抱えて消えました。それ以来、うわさを聞くこともありませんでした。

 同室のジョンさんは、ユースホステルのヌシのごとく、シーズンが始まり込み合っていたにもかかわらずなぜか追い出されることも無く、超長期滞在を決め込み、長いあごひげをなでながらニコニコしていました。新しい仕事のことを話すと「That’s great. But take it easy. I’ll be here anyway。Visit me at weekends.それは良かった、しかしね、ほどほどにね。僕はどっちみちここに居るよ。週末にはおいでよ」と。

 姉御肌のこけしさんも週末にはキッチンの手伝いをしていたのでベッドは確保されていて、安泰でした。仕事が見つかったことは昨日電話で伝えていましたが、改めて報告すると大変喜んでくれました。「週末にはご飯食べに来てね。週にいっぺん位はちゃんと食べたほうがいいから。ソーセージ、多目に盛ってあげるからさ」と励ましてくれました。

 受付の縮れ毛氏も「You are diligent.君はまじめだと。ここの仕事を手伝ってくれる人が居なくなるのは残念だけれど、いい仕事みたいだから良かったな」と喜んでくれました。(Diligentは彼に教わった単語でした。)
 彼はアフリカのアルジェリア出身でした。僕はどんな国なのか全く知識がありませんでしたから折に触れて教えてもらいました。
 彼は、アルジェリアは最近までフランスの植民地だったので、母語のアラビア語と同じにフランス語が日常的に使われていていると話してくれました。道理で英語よりもフランス語が先に口をついて出てくるはずだと僕は思いました。彼にとってフランスの植民地であったということは悔しいことのようでしたが、ヨーロッパに居てアラビア語では何も出来ないのでフランス語が話せることは幸いだと思う、と話してくれました。

 僕はユースホステルで出会った様々な国の人々の話を聞いて、ヨーロッパにおける第2次世界大戦のことやその後のこと、フランスや英国の植民地だった国の人々の複雑な気持ちなどを少しだけ知ることになりました。そのことは後々の僕の人生に少なからず影響を与えたと思っています。

 写真はプラハ本駅のドーム内にあるカフェ。2004年12月
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