僕の45年間ー542010/09/10 21:53

 1月のパリの夕暮れは早く、僕がピカデリーに着いたころには街灯が少しずつつき始めていました。ピカデリーはアベスに比べて、たくさんの派手なネオンサインを揚げた飲食店や映画館などが軒を連ねていていました。
 僕は闇の両替屋が現れるのを、半ば期待をし、半ばそのまま帰った方がいいかなと思いながらぶらぶらと表通りを歩きました。ほどなく、背後から「ムッシュー、エクスチェンジ?(両替)」と声を掛けられ、予想をしていたはずなのに僕はビグッとして、一瞬凍りつきました。心臓はバグバグしていました。僕は思い切って「ウイ」と言って振り向きました。目に入ったのは褐色の肌をした、大きな目をギョロットさせた、僕の背丈とあまり変わりのない男でした。何となく背の高い白人が現れるのではないかと想像をしていたので、その男を見て背の低い僕はどこかで安心をしていました。
 男が指す方向はビルとビルの間の細い路地でした。そこには街灯もネオンサインもなくうっすらと暗く目立たないところでした。僕は「フィフティーダラーズ」といいました。男は「ウイ」と言い、ポケットから札を出し、数え、その札をゴム輪でくくって差し出しました。僕は男が数えているのを見ていましたから「大丈夫」と自分に言い聞かせ50ドルを渡しました。それを手にした男は脱兎のごとく路地から消えてゆきました。
 僕は街灯があるところまで出て札を数えてみました。「しまった。やられた。」と思ったもののすでに後の祭りでした。僕の50ドルは半分に減っていました。がっくりしながら自分に腹立たしさを覚えました。とぼとぼとホテルに帰る途中、何人もの厚化粧をした娼婦に声を掛けられ、それどころじゃないよ!とますます腹が立ってきました。
 日本を出て以来の初の大失敗でした。その日の夕食は無しと決めました。

 高橋さんに会ったのはその出来事の直後でした。僕は稼がないと餓え死にすると思いました。恐怖心が沸いてきました。気分が落ち込むと肉体も調子が悪くなります。そんなときに僕は風邪を引いてしまいました。大したことはないだろうと思いながら日本から持参した風邪薬を一ビン空にしました。
 しかし、悪寒と下痢が治らず悪化するばかりでした。ホテルのトイレは各階の共用のでしたから下痢の症状には最悪でした。寝込んで三日目くらいには廊下の壁に手をつきながらフラフラしながら、トイレ通いをしていました。
 安ホテルのスチーム暖房のラジエーターは朝夕にほんの少し暖かくなる程度で、その上に、毛布も限られていていました。僕は空腹と悪寒と下痢で眠ることもできず、部屋の天井の染みを見つめるしかありませんでした。眠れない闇の中で風邪以外の何か立ちの悪い病気だったらどうしようか、医者に診てもらうにはどうしたらいいのだろうか、フランス語も英語も出来ないのにどうやって症状を伝えたらいいのだろうか、日本大使館の電話番号は手帳に書いてきたはずだなどと思いながら、「死にたくない、死にたくない」と念じ恐怖心と戦っていました。
 しかし、体調は悪くなるばかりでした。

 写真はムーラン・ルージュ (Moulin Rouge) 2005年12月
 1889年に誕生したパリのモンマルトルにあるキャバレー
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