横光利一の「旅愁」 ― 2013/10/01 22:40
http://www.aozora.gr.jp/
Wikipediaによると横光利一は1936年(昭和11年)2月20日に神戸を出航し半年間、ヨーロッパへの旅行をしました。その時の体験をもとに書いたのが「旅愁1937年」のようです。僕が横浜港からマルセイユに向けて出発したのが1966年12月でしたから、さかのぼること30年ということになります。
『ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫って来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」』
『「ほんとにこれがパリかなア。」と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。』
『著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。』
写真は2008年に撮ったリヨン駅です。横光利一はもしかしたらこれを見て『~古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。』と思ったのかもしれません。
横光利一の「旅愁」 2 ― 2013/10/04 21:54
「渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯灯の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞えて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まれて歩いている自分であった。
『日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。』」
「涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉に漂うごとくうつらとするのだった。」
僕がイギリスでお世話になった下宿の廊下にはガス灯の器具が当時のまま残っていました。器具は日常的に手入れがなされていつでも再登場が出来そうな気配を漂わせていました。
西欧では一般の家庭でもロウソクから始まってオイルランプ、ガス灯、そして電灯と進化して今日に至っています。
パリではありませんが僕はシャーロック・ホームズの映画を思い出します。シャーロック・ホームズを乗せた馬車が、ガス灯が照らす石畳の通りを走りぬけてゆきます。221B、221B Baker Streetの自宅に到着すると電報が届いているとメイドが告げます。
つまり、馬車、ガス灯、電報の時代でした。一部では電灯の併用も始まっていたようですが。
下記のサイトでは「シャーロック・ホームズの冒険 01 ボヘミアの醜聞」を観ることができます。やはり上記のような雰囲気です。
http://www.youtube.com/watch?v=jErbJ2g6E1g
さて、横光利一がパリを訪れた1936年代のパリではどんな雰囲気だったのでしょうか。下記の映画の時代考証が正確であるなら、まさにこれこそ横光利一が呼吸したパリということになります。
邦題は「幸せはシャンソニア劇場から」ですが原題は「FAUBOURG 36」で意味は(フランスの)郊外1936」のようです。ここでもガス灯と電灯の両方を見ることができます。DVDも出ています。機会がありましたらレンタルしてご覧になってみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=sD_cS-9U41c
一方、日本ではどうなのでしょう。一般家屋のみならず、通りにガス灯を設置して明るくするという発想はあったのでしょうか。
『日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。』と横光利一に言わせたのですが・・。あれからまだ77年しかたっていませんから、電線や電話線を地中化し、街路樹を美しく成長させ、絵になる、か、写真になる街並みを造るにはまだ時間があります。
写真はパリの北駅付近。2005年。
横光利一の「旅愁」 3 ― 2013/10/14 21:33
矢代と久慈、ロンドンからパリ現物に来た千鶴子の三人は食事一緒にしたりして互いの心情を語り合っています。そんな会話の中に下記の一説があります。
矢代は少し早口で云った。
「ここじゃ僕らの頭は、ヨーロッパというものと日本というものと、二本の材料で編んだ縄みたいになっていて、そのどちらかの一端へ頭を乗せなければ、前方へ進んでは行けないんですね。両方へ同時に乗せて進むと一歩も進めないどころか、結局、何物も得られなくなるのですよ。」
「それや、そうね、あたしも何んだかそんな気がしますわ。」と千鶴子は幾らか思いあたる風に頷くのだった。
「しかし、それは、実は日本にいる僕らのような青年なら、誰だって今の僕らと同じなんだろうけれども、日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから、特にそんな不用な二本の縄など考えなくともまアすむんだなア。へんなものだ。」
ここの「二本の材料で編んだ縄」は多分、自分たちが慣れ親しんだ日本の文化に基づいた物差しと、もう一つはパリの物差しのことだろうと思います。つまり、初めてのパリを体験しながら二つの文化というか価値観の両方を意識し始めているのが分ります。
このことは外国の文化に生で接した者なら多かれ少なかれ、意識することだろうと思います。
近頃はこの「二本の材料」が二本だけでは済まなくなている状況が多々あります。国家間のことで言えば、二国間条約であれば二本の材料で済みますが、それが三カ国間条約、G7サミット、最近のTPPとなると互いに主張することが大幅に異なります。
僕が日本の政治家の発言をみていて思うのは、横光利一のいう「日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから」という感覚から抜け出せずにいるのではないかということです。このことは、言い換えると「以心伝心」を信じて「アウンの呼吸」で理解し合えると思う浅はかさの露呈に他ならないと思うのです。
つまり、日本の動向が世界のどこかの国なり人々に何かの影響を与えうるということを認識していないふしがうかがわれるということだと思うのです。
この「以心伝心」や「アウンの呼吸」ほど当てにならないのはないと僕は思っているのです。
昔、英語を教えていた時のことです。生徒さん方は6~7人の中年の主婦でした。「以心伝心」を英語で何と言うのかが話題になりました。その時にそれぞれの生徒さんの夫の食べ物の好みをノートに書いてもらいました。そして、翌週のレッスンまでにそれが本当に夫の好みなのか言葉で確認をしてもらったのです。
結果は僕の予想通りでした。約半分は妻の勝手な思い込みでした。中には結婚して30年来、土日の昼食はそばに決めていた方が居ました。その方は思い切って夫に聞いてみました。答えは「そばはあまり好きではないけれど・・・」という返事であったそうで、教室で大笑いとなりました。
ちなみに「以心伝心」を英語ではheart-to-heart communicationとかnonverbal communication、unspoken communicationとなります。
写真はたくさんの言語が聞こえてくるパリのリヨン駅。2005年。
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