僕の45年間-22009/11/26 21:17

僕がどんな経緯で海外へ行くことを考えたかはいくつかの理由があります。


大学ではバリケードが築かれ実質的な授業がなくなっていました。僕は学生運動をやろうかどうか迷っていました。僕は学生運動が本当に世の中を変えるのだろうか懐疑的でした。そこで、学生運動のリーダー達が社会に出てどんな仕事や地位に就いているかを大学の研究室の先生方に少し聞いてみました。結果は、優秀なリーダーであった人ほど企業の管理職に就き「立派」になっているということでした。僕は父親からも同じような話を聞かされていました。労働組合で指導者になれる人は会社にとって大事な人材だと。僕は、それはそれで受け入れることができました。社会を変えると言っても何をどんな風に変えるべきなのか、自分でも分かっていませんでした。


大学の先生方は「じっとしていろ。授業はなくても単位は出すし、卒業はできるから。」と話していました。へそ曲がりの僕は、いくら外国語の成績が悪かろうとそれでは納得ができないと思いました。そんなころ「ふうらい坊留学記」(安川実著、後のミッキー安川、カッパブックス刊)を読み、その後で、「何でも見てやろう」(小田実著 講談社刊)を見つけて夢中になりました。両方とも語学が不得意でも歯を食いしばってがんばれば何とかなるという思いを持たせてくれたのです。両者とも常人ではないということに気がつかず、自分も同じような語学音痴だが可能性はあると信じてしまったのです。


僕はまず、新宿東口にあった交通公社、いまのJTBへ行き相談をしました。カウンターで話を聞いてくれた男性職員はすぐに、僕には見えない事務所の方へ引っ込みました。ややしばらくして戻ってきて、具体的な話をしてくれました。パスポートという旅券が必用であること、外貨は500ドルまでしか入手できなこと、などなどでした。
僕にとって肝心なことはどれほどのアルバイトをやったら資金ができるかであって、手続きの仕方は後々勉強をすれば良いと思っていました。「船賃はいくらですか」と聞きましたら「どこまで行きたいんですか」と聞かれ、とっさに「フランスです」と答えました。
フランス語が分かったらいいだろうな、という漠然とした気持ちがあったからそう言ってしまったのかもしれません。考えてみれば前述の2冊の本は主にアメリカでの体験を書いていたのですが「アメリカです」とは言葉が出てきませんでした。


写真は外貨500ドルを受け取った記録。
あわせて「携帯輸出金額 15000円」とあるのは日本円の現金の持ち出し限度額。出国時に自己申告。
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