作家・南川泰三氏と札幌で2011/03/01 21:49

 昨日の夕方、ときどきこのブログに書き込みをしてくださる小説家であり放送作家でもある南川泰三さんが札幌に立ち寄ってくれました。旭川で講演会、加えてFMラジオ放送2つに出演した後、東京に真っすぐ戻らずに時間を作ってくれて札幌に寄ってくれました。
僕が東京へ行ったときに会う機会はあるのですがゆっくりと話が出来るほどの余裕はなかなかありませんでした。
http://taizonikki.exblog.jp/

 今回は一緒にすしを食べ、その足で拙宅に来てもらって深夜1時頃まであれやこれやの話をすることが出来ました。
 南川さんのブログにもありますが「グッバイ艶」が幻冬舎から再刊になるという吉報の詳しい経緯をお聞きしました。
 幻冬舎の見城社長と面識があるわけではなく、WEBで調べて「グッバイ艶」の再刊をお願いする手紙を添えて本を送ったのだそうです。大手出版社が、他社がすでに出版した作品を再刊するという事はきわめて異例なことであると承知の上でのことであったと話していました。
 
 僕は67歳の南川泰三という作家の執念に感動を覚えました。自分の作品をもっと多くの人に読んでもらいたい、と願うことはどんな表現者にも出来ることです。しかし、そのための具体的な行動、それも最も単純な手紙を書くという行動をとる人はめったに居ないと思うのです。

 僕は、彼から再版の吉報の電話をもらって以来、触発され勇気をもらったことを話しました。
 
 2009年夏にペンタックスフォーラム新宿で行った個展「下北半島にて」の会場で、「アサヒカメラの編集部では作品を見てくれるよ」とある人が教えてくれました。僕にとってはカメラメーカーのギャラリー公募に応募する以上にハードルが高いと感じていることでした。それ以来、いつかはと思いながら今日まで行動を起こすことなく来ていました。

 南川さんの吉報を改めてブログで読んで、少しの勇気が必要でしたが、僕はまず、アサヒカメラに電話をしました。「遠友塾」写真展をキヤノンギャラリー銀座で行う旨を話しました。アサヒカメラ編集氏は「作品を拝見しますのでポートフォリオ係りへ送ってほしい」といわれました。つまり、アサヒカメラが通常行っている公募の一部門への応募を促されたのです。
 雑誌で見ると毎号、力作ばかりです。僕は古いアサヒカメラを書棚から引っ張り出して改めてそのレベルの高さを認識しました。掲載してもらえる可能性は無いな、と自分勝手に決め込んでそのままにしていました。心の中では「意気地なし」と自分をなじっていました。
 2日間ほど悶々としましたが、僕は郵便局へ行きアサヒカメラ宛に作品を送りました。

 南川さんとは今日も、昼食をいただきながらいろいろとお話が出来ました。僕らの年代の多くの人たちはすでに「引退後の生活」をおくっているだろうに、と言いながらも南川さんの次の作品への熱のある構想を聞きました。次回作をもお楽しみに!!
僕は僕で「ニューヨークとかパリ、ロンドン、北京などで個展をやってみたい」と大風呂敷を広げました。

★幻冬舎からの「グッバイ艶」は今年の5月には書店に並ぶそうです。
今月、10日間の校正の時間があるということで、従来の作品社のに少し手を入れるかもしれないと言っていました。変更箇所を見つけた方には10ポイント差し上げます。装丁も新しくなるので、それも楽しみです。

実に楽しい昨日、今日でした。南川さん、ありがとうございました。

写真は狸小路。2011年2月

僕の45年間ー992011/03/01 23:29

 大都市の駅ばかりを見てきた僕にはブライトン駅は大変小さく思われました。
 僕は駅を出て、商店街のある方へ歩きました。
 後々分かったことですがブライトンはロンドンから近い距離にある静養地というかリゾート地であったのです。従って、海岸に沿ってたくさんのホテルやベッド&ブレックファースト(B&B)が並んでいました。
 僕はまずはユースホステルを探さなければなりませんでした。地図を見ながら徒歩では無理と分かったのでバスをと思いながらしばらくウロウロしました。
 バスは家並みのある地域を過ぎて広々とした牧場のある道を走り、「草原の小さな家」のようなところで停まりました。ユースホステルとおぼしき家屋はバス通りからさらに細い道を5分ほど歩いたところにぽつんと建っていました。周りには何もありませんでした。僕は「こんなところにあるの?」と思いながらドアをノックしました。
 宿泊客は一人も居なく、がらんとしていて、どのベッドでもどうぞということでした。
 
 僕はブライトンに来た目的を告げて、Davies’ School of Englishという語学学校を紹介してもらい早速出かけました。
 やはりバスに乗って住宅街で下ろされ、すぐに見つけることが出来ました。 
 僕はロンドンからブライトンまでの電車の中で、すぐに必要と思われる単語を辞典で調べてメモを作っておきましたのであまり不安はありませんでした。
下宿:boarding house
授業料:tuition fee
などです。
 学校ではすぐに電話をして下宿を探してくれました。そして、もし気に入らなかったら何の面倒も無く別の下宿を紹介してくれることを説明してくれました。
 学校ではクラスを決めるのに簡単なテストを受けました。結果は当然ながら「初級」でした。僕は基礎からしっかりやらなければならないと思っていたので納得しました。

 紹介された下宿へはまたバスで行きました。大きな家ばかりが並んだ住宅街で目的の番地を探し、ベルを鳴らしました。しかし、何度鳴らしても誰も出てきませんでした。窓から中の様子をうかがっても人気はありませんでした。何度も学校からもらった紹介状の住所を見て確かめましたが間違っていませんでした。

写真はパリの北駅で。

僕の45年間ー1002011/03/03 01:31

 僕にとっては記念すべき「僕の45年」の100回目です。何を記念するのかと問われそうな気がしますが、くじけそうになったり、寄り道をしたくなったときに頂いた多くの読者?のご支援?のおかげでここまで来ることが出来た記念です。
 ありがとうございました。これからも多分、駄文を綴ります。程よく叱咤激励をいただければ大変嬉しく思います。
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 しばらくの間、下宿の前でウロウロしていました。幸いあまり人通りがなく怪しまれることもありませんでした。
 そうしているうちに中年の女性が運転する車が止まりました。「Are you Mr. Osaka?」と彼女は運転席の窓をおろしながら言いました。下宿のおばさんでした。車から降りた彼女は大柄で、派手なドレスを着ていました。
 今思い出してみればソフィア・ローレン風の人でした。何やら早口で盛んに話していましたが僕にはサッパリ分かりませんでした。
 彼女は家のドアを開けて招き入れてくれました。あなたの部屋は2階ですといって案内をしてくれました。通された部屋は広々としてダブルベッドが置かれていました。僕には贅沢すぎるなと思いました。しかし、と思い直して明日の夜からお願いをすることにしました。
 台所へも案内をしてくれました。一度も使ったことが無いようなピカピカなガス台や流しが印象的でした。僕は、イギリス女性はこんなにきれいに台所を掃除するのかとびっくりしました。
 彼女は紅茶を入れながらいろいろと説明をしてくれました。下宿人は僕一人であること、彼女はもう一軒の家に住んでいてこの家では寝泊りをしていないこと、食事は、朝食は僕がピカピカの台所で好きに調理してよいこと、夕食は自分が住んでいる家で料理して運んでくることなどでした。
 最後に自分はイギリス人ではなくイタリア出身であること、イギリス人のやることは訳わからないことが多々あるという話をして鍵を渡してくれました。僕は何となく「なるほど」と思ってしましました。

 翌日の午後、ユースホステルを引き払って新しい下宿に移りました。家の中はシーンとしていました。閑静な住宅街ですから近所も静かで気持ちが悪くなるくらいでした。
 僕の大きすぎる部屋で窓際の椅子に座って見たものの落ち着きませんでした。

 6時過ぎくらいに昨日の女性が大きなバスケットを持って現れました。僕の夕食です。彼女は台所のテーブルに食器を並べて準備をしながら云いました。「私は、イギリス料理は得意ではないのであなたの食事はイタリアンになります。それでいいですか」と。イタリアンと言われてもそれがどんな料理か、22歳の津軽出身の僕には知るよしもなく、僕は「OK」と言いました。その日はトマトソースのスパゲッティーでした。デザートもありましたが覚えていません。今までのジャガイモ中心の食事が「イタリアン」に急変し、僕の胃袋はびっくりしたようでした。
 食事は僕一人で、下宿のおばさんはおしゃべりをしながら僕が食べ終わるのを待っていました。ここでも僕は落ち着きませんでした。

 おばさんが帰ってからは家にはまた、僕一人になりました。しばらくの間、居間でテレビを見ましたが満腹のせいか、疲れていたせいか眠くなり自分の部屋に戻りました。

 写真はパリの北駅のレストラン。2005年12月

大 雪2011/03/03 19:05

 今日は終日、雪が降っています。今期、一番の降雪かと思われるほどに降っています。
 一昨日あたりまでは小春日和が続いていたのですが・・。妻共々、これで終わるわけが無いよね、と話していたら、やはりきました。いつもながら帳尻は合うようになっていますね。
 皆さんのお住まいの地域はいかがですか。

僕の45年間ー1012011/03/03 22:52

 さて、ベッドに入ろうと思いカバーをめくりました。現れたのは真っ赤な上下のシーツとピンク色の毛布でした。枕カバーも原色の赤でした。あらあら、すごいなと思いながら身体を上下のシーツの間に滑り込ませました。当時のベッドは、今のと違ってふわふわでしたからゆらゆら揺れました。電気を消して寝ました。
 夜中、何故か寝返りをするたびにズルズルとベッドカバーと毛布が床に落ちてしまいます。10月のブライトンは寒くはありませんでしたが毛布無しで寝るというほど暖かくもありませんでした。落ちるたびに引っ張りあげますが何度もやっているうちに目が覚めてしまいました。
 電気をつけてシーツを観察すると、なるほどと納得しました。
1960年代はナイロンやポリエステル繊維が出始めた頃でした。イギリスでも洗濯は簡単でアイロンもかけなくて良いということでいろいろな製品に使われたようでした。下宿のおばさんも重宝したようでした。しかし、僕にとっては不眠の原因でした。

 学校は翌週の月曜日からと言われていましたから数日はブライトンの街をぶらぶらしました。海岸に出てみました。砂浜は少ししかありませんでしたが何キロにも渡ってよく整備された海岸でした。海岸には大きな桟橋が2つありました。船を接岸するための桟橋ではなく、遊園地のように設備された桟橋です。無論、たくさんの釣り人たちも陣取っていました。
 
下記に2007年のブライトンの写真が掲載されています。
http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g186273-Brighton_East_Sussex_England.html#1912003

 海岸に沿って延々と芝生が施され遊歩道がありました。遊歩道の下にはたくさんのバンガローがあり、人々はデッキチアーに寝そべったり読書をしていました。季節柄泳ぎをしている人はいませんでした。芝生のところでは犬が放し飼いにされて自由に走り回っていました。
 僕はこれがイギリスの豊かさかと感心してしまいました。

 周りから聞こえてくる言葉は当然ながら英語でした。僕は海辺に腰を下ろして、さあ、英語との戦いが始まるぞと気持ちを引き締めました。

写真はリヨン駅。2005年12月

「僕の45年間」の1~49をまとめました。2011/03/04 11:51

読者の皆様へ

「僕の45年間」の1~49をまとめました。
http://www.asahi-net.or.jp/~ww8t-oosk/my45-1.html
気が付いた範囲で誤字や誤変換を直して掲載しました。
50以降の分は校正作業が終わり次第、掲載したいと思っています。

改めて自分の文章を読み、下手だなアと思っています。手直しをしたい気持ちはありますが、凡才の願望で終わりそうです。

今後もどうぞよろしくお願いします。

                            2011.3.4
                                 大坂忠

「僕の45年間」の50~99をまとめました。2011/03/04 22:15

 もっと時間が掛かるかと思いましたが50~99をまとめました。
PDFファイルでアップロードが出来ればよいのですが僕の知識では無理のようです。あきらめました。

 1から99までの語数を計算したら400字詰め原稿用紙で137枚分にもなりました。学生時代の課題ではせいぜい50枚でしたから僕にとっては「大作」になってしまいました。

 飽きず、懲りずお付き合いをして下さっている皆様にはただただ感謝です。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
2011年3月4日   大坂忠

写真は合浦小学校3年のとき・・多分1954年あたりのです。
渋谷君と井上君と僕・・です。

僕の45年間ー1022011/03/05 20:51

 その日の夕食もイタリア人おばさんが運んできました。大きなキッチンテーブルはレストランのように美しくテーブルセッテングがされて、ひとり、王様のように白ソースのパスタを食べました。おばさんはいろいろと話しかけてはくれるのですが言葉を理解しようとすると食べる方がおろそかになり料理はなかなか減りません。
 そんなことで僕はこれが毎日続くのかと思って窮屈感を覚えました。
 食事が終わっておばさんは後かたづけをして帰りました。僕はまた独りになりました。

 初日、学校で下宿の話をしたときに、値段は高くなるけれど食事つきの下宿(boarding house)を希望するのか、経費が安い家具付きのフラット(furnished flat)がいいかと訊かれました。
 家具付きフラットというのはシーツから食器まで生活に必要なものが全て備わっているアパートです。一方の下宿は土日には3食で他の曜日には2食が付くということでした。
 語学を習得するには下宿の方がいいですよというのが学校の説明でした。下宿のおばさんをはじめ同宿の学生たちと話をする機会があるので上達が早いというのです。
 そんなことで僕は下宿を希望しました。イギリスでの滞在期間を長くしようと思えば家具付きフラットがいいのですが僕は学習の「即効」を期待したのです。しかし、イタリアおばさんの下宿には同宿の学生も居なく、食事が終わると独りになるのでは「即効」を期待できないと思いました。
加えて、化繊のシーツが毎晩すべり落ちて、そのたびに目が覚めて引っ張り上げるのかと思ったら気が重くなりました。

 翌朝、僕は再度学校へ行き、事情を説明しました。シーツが真っ赤で、よくすべるという僕の説明に事務所の女性は噴出しました。即、電話を取り上げて新しい下宿に電話をしてくれました。説明では新しい下宿が気に入ったら、イタリアおばさんに何も言わず荷物を運んで移っていいということでした。住所が書かれた紙片を渡して「Good luck!」と。

 僕はすぐバスに乗って紙片の住所へ向かいました。そこは少し小高くなった、遠くに海が見える大きな家でした。ベルを押す間もなく40歳代のほっそりした女性がニコニコして出迎えて、いきなり自己紹介をしてくれました。自分をフィフィと呼びなさいというのです。彼女の笑顔は今も忘れることが出来ません。彼女は2階の部屋を見せてくれました。それから、テレビのある大きな共同の居間兼食堂、台所などです。台所では、お茶を飲みたいときにはこれこれを使っていいですよとも云ってくれました。

写真は1901年開業のレストラン「ル・トラン・ブルー(青列車)」。予約無しで昼食を頂きました。妻は魚料理を、僕はビーフシチューを。

僕の45年間ー1032011/03/06 23:31

 フィフィさんの下宿は賑やかでした。説明を受けている間も小学生の息子2人は家の中を走り回っていました。下宿人はアラブ人兄弟2人、チュニジア出身の黒人男性予備校生、イギリス人の男性予備校生1人ということでした。
 
 フィフィさんは子どもはいるけれど夫はいないということと、姉が同居しているけれどめったに帰ってこないと話してくれました。今考えるとシングルマザーということであったようです。
 後々分かったことでしたがこの姉妹2人は若いときにオーストラリアへ渡り事業を起こそうとしたのですが事情があって故郷に戻ってきたのだそうです。

 その後の滞英中に、オーストラリアへ移民をしたけれど戻ってきたという何人ものイギリス人に会いました。気候が合わなかったとか、仕事が上手く見つからなかった、中にはオーストラリア英語は気に食わないという人までいました。日本においてもハワイを始め南米に移民をするが行われていたのは知っていましたが移民は僕には考えられないことでした。

 僕は「Can I move in today?きょう引っ越してきてもいいですか」と訊きました。フィフィさんは「Yes. Certainly.はい。どうぞ」と笑顔でいってくれました。
 時間は丁度昼時でしたので昼食を奨められました。「Is beans on toast all right?」と云われましたが僕にはどんな食事なのか分かりませんでした。しかし、臆せず「Yes. Thank you.」といってしまいました。
http://www.theedinburghblog.co.uk/eating-out/a-cheap-weekend-fry-up-and-sunday-lunch/06-20-2006/
 ポークビーンズをトースト2枚にのせた食事でした。僕はなるほどこれがイギリス人の昼食かと思いながら美味しく頂きました。ポークビーンズはハインツの缶詰を温めるだけですから大変簡単で素早く用意が出来る昼食です。後々、自分で食事を用意するときにはハインツの缶詰を度々活用しました。
 お金があるときにはソーセージや目玉焼きを添えるともっと豪華な食事になります。

 米の文化では各自の食事の分量の調節にはご飯をオカワリします。イギリスではそれが大皿で出されるジャガイモであったりパンです。この日もフィフィさんは「Here you are. If you like some more toast.」といってbeans on toastの2枚で足りなかったらこれをどうぞとテーブルに出してくれました。僕は皿に残ったbeansのソースをつけてむしゃむしゃと腹いっぱい頂きました。

 昼食の後、僕は学校に行き、引っ越すことを話ました。係りの人は喜んでくれました。その足でイタリアおばさんの家へ行き荷物をまとめて赤いシーツともお別れをしました。

 写真はリヨン駅構内のレストラン「ル・トラン・ブルー(青列車)」で僕の注文したビーフシチューを盛り付けてくれるウエイター氏。

僕の45年間ー1042011/03/07 21:33

 夕食は今までと打って変わって大勢と一緒のにぎやかな食事でした。
カンボジア号では画家の村上さんと一緒のことが多く2人でぼそぼそと食べていたような気がします。言葉は、ときどき村上さんが発する奇妙なイタリア語の単語以外は当然ながら日本語だけでした。
 新しい下宿では小学生2人も一緒に大きなテーブルを囲んで大家族のように野菜やパンの大皿を手渡ししたり、おしゃべりをしたり、時々ふざけたり、英語だけではなくアラビア語が行き交ったりと活気のある雰囲気で、僕は救われた気分になりました。少し。英語との格闘に自信を持ちました。
 今でも記憶しているのはそのときに覚えた「Stop teasing me. からかうのはやめろよ」という表現でした。小学生の子どもらが度々使っていました。

 食事の後はそれぞれ居間のソファーで本を読んだり、テレビを見たり、宿題をやったりという風でした。愛称がMr. Kingの黒人学生は僕の相手をしてくれました。辞書を引き引き、彼自身のことを聞きました。Mr. Kingはイギリスの大学に入学したくて旧フラン領のチュニジアから出てきたことを話してくれました。人口のほとんどはアラブ人の国で自分は少数派だといっていました。

 英国人の浪人生はエリックさん。細面の小柄な、大変社交的な人でした。後々、友人を下宿に連れてきて、Mr. Kingとエリックさん、彼の友人、僕とで様々な議論をしました。
 高校や大学時代に友人たちとわいわいがやがやと議論をすることは好きでしたからその延長でした。辞書を引きながらの議論は不自由でしたが楽しみな時間でした。 
 印象に残っている議論は戦前のイギリスや日本の植民地での蛮行についてでした。Mr. Kingのチュニジアは旧仏領で、植民地化された立場からの意見も貴重でした。
 
 僕は、語学の面では語いを増やせたことと、度々の議論の中で使われる「you」の使い方を学びました。Youは一般論としての「人は」という意味で「one」の替わりに使われるということに気が付いたことは大きな収穫でした。

 アラブ人の兄弟はイギリスが旧宗主国であるイエメン出身でした。兄はアリーといって、勉強嫌いの高校生、弟のフレッドは小学生6年で一所懸命に勉強をしていました。フレッドは兄に勉強するように説教をするというおかしな場面を何度も見ました。

 フィフィの子どもたちは小学校3年と5年生くらいでした。上がやんちゃなビルで下がおとなしいジョナサン。二人は仲良く家の中を走り回って遊んでいました。

 家は大変大きく、2階と3階にはそれぞれ4部屋づつあり、使われていない4階の屋根裏部屋もありました。僕の部屋は階段を上ってすぐ右側の一室でした。隣は共同のバスルームでした。

 ベッドのシーツは普通の白い木綿でした。その夜はぐっすりと眠ることが出来ました。

 写真はディエップ(Deppae)。イギリスのニューヘイヴン港との間にフェリーの定期便が運行されています。イギリスで勉強しているころ、少しお金が出来ると週末にニューヘイヴンからフェリーに乗ってここまで来、パリへ行きました。
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