そして空き家になった2012/07/08 23:03

 僕は34歳だったと思います。それまで働いていた札幌駅前にあるセンチュリーローヤルホテルを退職し、当時は「大坂英語センター」後に「ベテル英語センター」を設立しました。常勤の職員は自分が一人ということで「設立」したというのには大げさな個人営業の英語教室でした。銀行から前家賃と机や白板を買う資金を6~70万借りました。1980年だったと思います。
 始まりは再開発前の札幌駅前あった「大勝ビル」の3階でした。1~2階は「大勝そば」でした。いつも美味しそうなそばタレの匂いがしていました。

 7年ほどそば屋さんにお世話になりました。その頃には会社組織にしていました。札幌駅前の再開発がはじまり大勝ビルの取り壊しが決まり、ベテルは北1条西3丁目に移転しました。古久根ビルの5階でした。 数年後には同じビルの地下50坪が空き、また、移転しました。
 1998年には前代未聞の銀行が破綻するという自体が起こりました。北海道拓殖銀行の倒産です。朝起きて朝刊を見てびっくり仰天したのを覚えています。
 ベテルはたくさんの法人のお客さんを持っていましたが、拓銀の倒産と共に法人客も少なくなり、50坪の家賃を支払うのは困難になりそうでした。 

 今度は大通り西18丁目にある北海道新聞社所有のビルに移転し、事業を大幅に縮小しました。幸いにも僕は一人として縮小に伴う解雇をせずに乗り切りました。そこでベテルを閉鎖するまでゆっくり仕事をするつもりでいました。翻訳の仕事が大幅に増えたのはこの頃です。しかし、北海道新聞社は入居時の約束を覆してビルを建て替えるので退去してくれと言い出しました。

 そこで、貸しビルに入居するのはもういい加減にしたいと思いました。
 最終的に落ち着いたのが南区澄川の古いアパートでした。地下鉄自衛隊前駅から徒歩1分30秒で、且つ、自宅からは徒歩で通勤できるので購入しました。無論入居者はいなく雨漏りが激しいボロボロの建物でしたが改装をして仕事を始めました。

 ダラダラとこんなことを書いていますが、つまり、写真の建物には前述の、僕が34歳で英語の仕事を始めたときからの教科書や様々な印刷物などが、移転のたびに一緒に移動をして来て、僕にとっての宝物というか自分の仕事の軌跡が詰まっていました。
 その建物を売却するに当たり、中身の宝物たち?も廃品回収業者のトラックに無造作に放り込まれて、ゴミと化しました。

 今日、知人の訃報に接しました。僕より10歳年長の76歳でした。経済学研究者で、ある大学の理事長現役でした。僕は無論大変残念で悲しく思いましたが同時に、家族が氏の宝物を処分するのは難儀なことだろうとも思いました。

 写真は一階で約30坪の広さです。そこでのうのうと散らかし放題で仕事をしたり写真の個展の準備をしていました。今は全部で約21坪のマンションの4.5畳の部屋が僕の仕事場です。僕が死んだら妻はこの4.5畳に詰まっている物たちだけを処分すればいいのです。

刺し子の消防服2012/07/10 22:08

 先月までは何かと気ぜわしい日々が続きました。
 昨日も書きましたが仕事も住居も年齢と共にドンドン縮小し、それに伴い仕事関係の書籍から書棚、家具類まで廃棄処分をしました。
 その中に昭和初期の刺し子の消防服がありました。

 僕が札幌に住むきっかけとなったのは冬季札幌オリンピックと六郎叔父です。僕が1971年夏にイギリスから戻ってきて、東京で就職口を探しましたが見つかりませんでした。おりしもオイルショックやらで採用が控えられて、ましてや大学中退で中途採用の職を探す者には難しい時期でした。そんな折に母の末弟の叔父から連絡がありました。「忠、来年は札幌でオリンピックがあるからどうだ」というのです。「英語が話せるなら仕事があるかも知らないぞ」ということでした。そんなことで僕は、今はなくなりましたが札幌ローヤルホテルにウエーターとして採用をしてもらいました。
 その叔父は数年間の癌との闘いのあと60歳代で亡くなりました。入退院を繰り返していたある時期に叔父も自宅を整理し始めていました。 ある日、電話が来て「忠、お前の好きそうな物があるから見に来い」というのです。叔父が気に入ってくれた僕のボロネーズを手土産にいそいそと出かけました。叔父の家は1階と2階の天井裏を納戸のようにして使っていました。僕をそこに招き入れて見せてくれたのが写真の消防服です。

 僕の名前を付けてくれたと祖父は2代目金助といいます。僕が3歳くらいのときにやはり胃癌で亡くなっていますから記憶にはありません。「これはオヤジ金助が戦前、町内の消防団のために作った服の残り物だ。刺し子の消防服だ。どうだいいだろう、持っていけ。」というのです。
 僕は大いに気に入って長いこと居間にぶら下げて楽しみました。

 そして今、僕は当時の叔父の歳を超え、自分が持ち物の整理をしなければならない歳となりました。そこでこの消防服も処分をしなければと思い、市内の骨董屋に行きましたが「店主が不在」で値段が付きませんでした。雨が降っていましたので2軒目に行くのは面倒だなと思い、致し方なく拙宅に持ち帰って出直そうと思いました。
 改めて、手放したくないなァと心の片隅で思いながら裏地を見ると「東京小林製」とあります。今までは気にも留めていなかったのですが。で、僕はあてもなくインターネットで検索をしてみました。そしたら「株式会社小林消防服」があったのです。その会社の歴史を読むと祖父2代目金助の時代である昭和初期にはすでに刺し子消防服の製造をやっていたのです。
 
 僕は写真を添付してメールを書きました。翌日には社長さんから電話をいただきました。「会社は戦時中に被災し、多くを消失したので、昔の刺し子の製品は残っていません。ありがたくちょうだいをしたい」ということでした。
 これで昭和初期の刺し子の消防服は安住の場所を見つけたなと思い、安堵しました。

いじめ2012/07/24 23:11

 近頃のニュースで「いじめ」のことが度々報道されています。で、僕は思うのです。言葉をオブラートにつつんで表現をすることはもう止めた方がいいのではないかと。
 「いじめ」は暴力です。どうして「〇〇君は暴力を振るわれた」と云わないのでしょうか。たとえそれが言葉によることであっても「暴力」です。今日の「いじめ」という表現には、暴力事件といじめ問題は異なると云っているような雰囲気を感じるのは僕だけでしょうか。ちなみに「いじめ事件」という表現には接したことがありません。このことが話題になるときの表現は「いじめ問題」であって「暴力問題」ではないのです。僕は「児童や生徒間の暴力事件」と明確に表現するべきではないかと思います。

転校
 児童や生徒間の暴力事件に巻き込まれた場合には即、転校を認め、学級への挨拶などという面倒なことは全て省いて、翌日から新しい学校に通えるような制度を考えるべきだと思います。本人が希望したら、教育委員会なり学校は一切の理由を問うことなく即、転校を認める制度にしたら良いと思います。
 暴力行為に遭遇したら逃げるが勝ちだと思うからです。立ち向かうことも大事かもしれません。しかし、立ち向かうことが出来るかどうかは本人が一番分かっているはずですから本人の意志を尊重して、親もちゅうちょすることなく即、転校をさせるべきです。
 そのことによっていずれは、暴力行為が起こらない学校には児童生徒が集まり、危険な学校の児童生徒数は減少し、世間は区分けができるようになります。

みんな仲良く
 「和を重んじて」とか「協調性を大事に」云々という思考回路があります。協調性があるのは大事かも知れませんが、無くても問題ない、と考えることも重要だと思います。半面、「個性を生かした教育」とか「個性的な生き方」などの表現があります。いいかげん、それらの表現の矛盾をしっかり考えてみる必要があると思います。
 僕は札幌の「よさこい祭り」の季節が来るとぞっとします。大勢の老若男女が皆同じ衣装を身につけて大音響のかけ声や音楽に合わせて、一糸乱れずに踊るのです。そして踊り手の人々は嬉々はつらつの表情を見せるのです。

友達が多い、少ない
 そんなことが話題になること自体が狂っていると思います。TVのインタビューを見ていると決まって「友達は多い方でしたか、それともいなかったのでしょうか」という類の質問をTV局の人が住人にしています。結果、「友人は少なく、独りでいることが多かったと近所の人は語っています」と大げさに「報道」をします。友人が多いのはそんなに大事な事なのでしょうか。僕はそんなことは数の問題ではないだろうとなじりたくなります。

僕の経験
 東京の中学校に転校したとき、大田舎の青森出身の僕はいじめの標的でした。勉強にはついてゆけず、言葉は津軽弁まるだし(自覚はしていませんでしたが多分)ですから当然だったのかもしれません。僕はある日、一人の同級生が絡んでくるのが面倒になりました。そこで首根っこをつかんで反撃をしました。その男子生徒は予期せぬことにびっくりしたようでした。しまいには、教壇の机の引き出しが壊れるまでやっつけました。その結果、同級生の誰も僕には絡まなくなりました。
 中学3年の一年間を過ごした学級でしたが卒業と同時にお付き合いもなくなりました。他の学級のF君とはなぜかウマがあって今でも交流をしていますが。

 写真は先日、札幌の場外市場に出かけたときに買ったホッケの開きです。こんなに大きくて美味そうなのはいつものスーパーマーケットでは見かけることがありません。妻共々、堪能しました(笑)

体 重2012/07/30 21:31

 僕は35日毎に内科医を訪れて採血をしてもらい、血圧を測ってもらいと主に糖尿病の治療を受けています。幸いなことにここ数ヶ月は血糖値もA1cも平常値になり一安心をしています。ここは内科だけのクリニックなのですが管理栄養士さんが常駐しています。
 通路を挟んで診察室の向かい側に小ぶりの机と椅子が2脚備えられた小部屋があります。机の上にはラップトップのコンピュータがあり患者の資料は全てオンラインで見ることが出来そうです。

 先日のことでした。僕がほぼ毎日書き込んでいる点と点の一覧表を手にして、やおら定規でそれらの点と点を結び、折れ線グラフにしながら慎重に吟味し、赤い花丸のゴム印をペタリと押して「来月も楽しみですね!」とニコリとしながら僕の体重表を返してくれました。

 この管理栄養士さんは30歳半ばの女性です。昨年の僕の札幌での写真展を観に来てくれました。
 彼女の仕事が患者の体重管理だけだとは思いませんが、やはりほっそりとしていて、暴飲暴食は決してしないだろうなと思わせる体型の持ち主です。
 「来月はきっと、80台の数値が消えて、70台の後半くらいのが占めるといいですね」と。
 「僕もそうは願っているのですが・・」。
 「しかし、大坂さん、最初の10キロを減らすのよりもその次の10キロの方が数倍難しいんです」と。続けて
 「まあ、これから暑くなりますから食欲は減退するとおもいます。それを上手く利用して・・」

 しかし、幸か不幸かこれまでの僕の人生で暑くなろうが寒くなろうが食欲減退を経験したことがありません。嗚呼。

 今日は特に暑いということで、妻の言葉に従って薄手のズボンをはきました。僕のこぶし2個分の余裕がありました。一瞬、ズボンのウエストが伸びてしまったのかと思いました。

 写真は大通り公園。20年も経ってこの子供たちが社会人となる頃の世界はどうなっているのかなと思いながら数枚の写真を撮りました。

究極の身辺整理2012/07/31 23:07

 ここで何回か身辺整理の事を書きました。今日はそれの究極?かなと思いながら、妻と出かけました。行き先は今の拙宅に引っ越す前に住んでいた戸建の家です。

 先般は廃品回収業者(雑品屋)に来てもらい不必要な物を思い出と共に大型のトラックに積み込んで処分してもらったことを書きました。今日はその入れ物、つまり家そのものの解体の始まりの日でした。 
 実は1週間ほど前から解体屋の作業は始まっていました。最初は内装の断熱材や石膏ボードなどの取り外しをする分別作業が中心でした。従って、外見は以前に住んでいた頃のと変わりがありませんでした。しかし、今日からは重機が入り、ドスーン、ドスーンと家そのものの解体というよりは破壊に近い作業が始まりました。
 僕らは依頼主として特に現場に立ち会わなければならないということはありませんでしたが、気分的に以前住んでいた家の最後というか、破壊を見届けたいと思いました。

 この家は元々、ボロボロの入居者のいないアパートでした。それを改築して、当初は英語の教室と事務所として使いました。その後、英語を教える仕事をやめ、翻訳にだけに特化をしたので1階を僕の仕事場、2階を住居として使いました。
 僕にとっては写真を再開するきっかけにもなった家ですからそれなりに思い出はあります。A3ノビのプリンターを導入し大判のプリントに取り組み、方々の壁に好きなだけ写真を貼って、眺めて、独り批評をしたのもこの家です。始めてのキヤノンギャラリーへの公募に応募し、合格の手紙を受け取ったのもこの家です。

 家の前には精進川という小川があって、夏は涼しい風が絶えずあり、大変快適な環境でした。しかし、年齢と共に冬の雪との戦いが億劫になり始めました。それに僕らは街が好きということもあり今の、限りなくすすき野に近いマンションに引っ越すことにしました。

 今日は破壊される家を見ながら、ここに至るまで様々な思い入れのある「物たち」を他人に譲り、あるいは捨ててようやくたどり着いた身辺整理の大きな一区切りかなと、今年の春からの作業のことを思い出していました。

 今朝はセンチメンタルな気分になるかなと思って出かけたのですが、実際はそれよりもある種の快感の方が勝っていました。それは、僕が死んだら今の4畳半の仕事場だけを整理してもらえれば一件落着となるという安心感であるのかも知れません。

 精進川に沿って遊歩道がありベンチも置かれています。二人で腰を掛け、破壊される家を見ながら川風に当たってきました。
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