住民投票と第九十五条2019/03/08 20:43

しばらくご無沙汰していました。
札幌は安心してもよいような季節になってきました。
安心・・・散歩に出て、滑って骨折をしないかなどという意味で安心です(笑)

僕のPCが謀反を起こし、ひと月以上も悪戦苦闘をしています。
病状は、新しいWEBページを開く度に「再起動します」となり、作業が止まってしまうのです。
考えられる全ての方法で駆除を試みましたが失敗というか効果なしで、終いにはWIN10のクリーンインストールを2度もやりました。
そのたびに何とかのIDをとかパスワードをとかで、整理整頓の不得意な僕には苦行でした。
今日は、まだ完全ではないのですが、最低限のソフトウエアーを入れることができ、少し安ど感を覚えています。

TV報道によると、札幌に限っては例年の3分の1程度の降雪だったそうです。もしかしたら灯油屋さんはあてが外れて困っているかもしれません。

添付のは小林節の記事です。
まだでしたら。
掲載のと同じ記事が下記の琉球新報にも掲載されています。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-881682.html

第九十五条
一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

いい写真2019/03/09 10:37

 今日も晴天です。拙宅には東側と南側に窓があります。周辺の歩道を見渡すと、雪はほぼ消えたようです。2019年はもうすぐ3ヶ月が終わろうとしています。

 ときどき、考えることがあります。「いい写真」というのを定義できるかなアと。
 撮る側の僕にはシャッターを押す前にある種の感動があります。その感動を一枚の写真で表現ができるかどうかは後処理の技量が大事になります。僕が注意をすることは、平面的な紙に印刷された写真の中に多くのことが写りすぎていることです。昔から写真は省略の表現といわれています。多くの情報が混在しすぎると出汁が効いていない、味の薄いみそ汁のようになってしまいます。かと言って、濃厚すぎるとすぐに飽きてしまいます。
 というわけで僕が目指すのは、毎日食べても飽きないご飯とかジャガイモ、パンのような写真です。
 壁に貼って、その日その日の気分で毎日眺めて、なお、感動の余韻を感じることができる写真は僕なりに「いい写真」だと思っています。

 添付の写真は今住んでいるマンションに引っ越す前の戸建住宅で「マンハッタンの主たち」という作品をペンタックスギャラリーに応募しようかどうかと考えている時の様子です。今は狭いマンション住まいなのですが何とか写真をべたべた貼って、飽きる写真は外す、という作業を繰り返しています。

一点完結-82019/03/10 23:05

 今日は共産党の志位委員長の演説会に参加しました。
「人の幸福」を実現するための政策、その優先順位を考えた場合、現政権の税金の使い方は再検討されるべきだという氏の意見に僕は賛成します。

 先日の国会で安倍首相は「法の支配 rule of law)」の対義語は何かとある野党議員に質問をされましたが答えることができませんでした。
政治家が、ましてや一国の首相が法学の常識とさえ言われる「人の支配 rule of men」という表現を知らないで憲法の話をするのは無理です。

 そんなことを考えながら志位委員長の理路整然とした話を聞いてきました。ある意味、快感さえ覚えました。

 写真は2007年の撮影です。

土門拳と特高警察2019/03/11 12:04

 朝日新聞2019年2月23日朝刊の記事です。

 父の書斎ではたくさんの本を見つけて眺めていました。その中の一冊が「筑豊のこどもたち」でした。その本は今も手元にあり、僕の写真活動の原点なのです。
 その土門拳が戦前の特高に複数回検挙されていたという記事を読んで、やはりと思いました。

* 写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)を100円で刊行ー1960年

大坂忠の5ブログ(2009)
http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/05/?offset=30

下記は記事の抜粋です。

写真集「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」など社会派リアリズムの作品で知られる写真家、土門拳(1909~90)が戦前、特別高等警察に監視される「特別要視察人」だったことを示す資料が見つかった。
旧内務省が作成した「特別要視察人名簿」(国立公文書館所蔵)に土門の名が記されているのを、学習院大文学部の斉藤利彦教授が見つけた。
土門は22歳だった1932年、農民の待遇改善などを求めた「全農全国会議」の本部書記見習いとなったが、複数回検挙されたのち、農民運動とは距離をおいた。30歳の頃からは全国の寺院や仏像を訪ね歩き、のちに「古寺巡礼」シリーズなどに結実することになるが、「ヒロシマ」など社会派の作品で脚光を浴びるのは、終戦から10年以上たってからのことだ。

 斉藤教授は、土門が農民運動に深くかかわり検挙されたことが、特別要視察人とされたことにつながったと推測する。「土門は戦争に向かうために国がつくった監視装置にさらされながら、リアリズムへの道を見いだしていった。ヒロシマや筑豊の炭鉱を見つめたまなざしの奥底には、監視下で培われた国家や戦争への批判意識と憤りがあったのではないか」 (土井良典)

あれから10年2019/03/12 21:19

 今年は2019年だなと、とりとめもなく思っていました。そして、そう言えば、あれから10年だ、と「玉撞き屋の千代さん」の展のことを思い出しました。
 展示は2009年2月20日からでしたから、僕は63歳だったことになります。つまり、63歳にして人生初めての写真の個展を経験したのです。
 写真を再開したのが60歳でした。しかし、発表の機会が与えられるとは夢にも思っていませんでした。

 前年の2008年、安友志乃氏(「あなたの写真を拝見します」の著者)が主宰していた「あなたの写真を拝見します」という講評会に参加したのが事の始まりでした。

 当時の参加者の方々の中には若手の職業写真家もおられました。僕の手足はテーブルの下で震えていました。
 初参加の日に「下北半島にて」をメーカー公募に、という提案をいただきました。しかし、昔の写真ではなく今の僕が撮った写真で個展をしたい、という僕には僕なりの意地がありました。それが「玉撞き屋の千代さん」に結実したのでした。

< 当時のことを記したメモがあります>
<お時間があるときにでもどうぞ>

 安友志乃氏の著作を読みながら大昔の青臭い議論のことを思い出し、タイムスリップをしたような気分になりました。
氏の主宰する講評会に参加したい気持ちを抱きながら一歩を踏み出すことができず、酷評されることへの覚悟ができるまで2年ほどの時間がかかりました。
それくらい自信がなく臆病でした。
しかし、同時に刺激がほしいとも思っていました。
思い切って安友志乃氏へ講評会に参加したい旨のEメールを書き、「送る」をクリックするまでもコンピュータの前で腕組みをし、随分と時間がかかったように思います。

 もうすぐ63歳になるという4月、僕は「今回はひとりで上京したい」と妻に話しました。
妻も繁華で雑多な街が大好きなので東京へ行くときはいつも一緒でした。
しかし、その時ばかりは、講評会でコテンパに批評をされて落ち込んで帰ってくるのだろうと想像をしていたらしく、妻の返事は「はい。私は家にいます」と。

 池袋のビジネスホテルにチェックインをしました。
シングルの部屋はこんなに狭いのかと思いながら荷物からプリントを取出し、ベッドの上に並べてみました。
「こりゃ、だめだ。参加するのは間違いだ」と改めて思いました。
しかし、せっかく飛行機代を払ってきたのだからと思い直し、覚悟を決めました。

 講評会の会場は渋谷駅の近くの喫茶店の貸会議室でした。
8人ほどの参加者がいたと思います。
安友さんが「今日はわざわざ札幌から参加してくれた人がいます。まず、その大坂さんから」と言われました。僕はドキッとしました。
まさか一番目とは。まったくの想定外のことでした。

 大きなテーブルにA5サイズのプリントを30枚ほど並べました。手がぶるぶると震えていました。

 安友さんの最初の言葉は「で、大坂忠さん、何を言いたいの?」でした。
僕は一瞬心臓が凍りつくような緊張を覚えました。
僕は心の中で「何でわざわざこんな所まで出てきたんだろう。黙って、静かに札幌に居れば良かった」とつぶやきながら、手早くテーブルの上の写真を片付け始めました。
「ちょっと待って!」と安友さん。
「これは面白いね」と妻のポートレート数枚を指しました。
僕は「ポートレートの練習です」と答えながら早くその場から消えてしまいたいと思いました。
安友さん「たくさんあるの?」
僕「はい、あります」
安友さん「作品としてまとめると面白いかもしれないわね」
僕「・・・・」

 とりあえずテーブルから僕の写真が消えたので椅子に座りなおしました。
安友さん「ところで、その手に持っているのは?」
僕「コピー紙にプリントした古い写真です」
安友さん「あらそう、並べてよ」
僕「いや、これは40年前の写真ですから・・」

 僕が手に持っていたのは50枚ほどのA5サイズの作品とは言い難いものでした。僕の写真の原点のようなのを聞かれたらお見せしようと思って会場に持参した「下北半島にて=1964-65=」というのでした。19歳と20歳の2年間下北半島に通って撮った写真です。

松橋事件、再審無罪 「犯罪の証明ない」2019/03/29 16:55

 また冤罪かと思いながら、安堵しました。
 
 自白偏重の捜査には問題があると、幾度も繰り返し指摘されているのに、警察も検察もやめようとしないことに心から強い、強い怒りを覚えます。

 僕は、任意であれ逮捕であれ、警察は弁護士の同席なくしては尋問ができないことを制度化するべきだと思っています。刑事事件において起訴された場合、99%以上が有罪となるというのを日本の検察が自慢するのはお門違いだと思います。

 2019年3月19日には「呼吸器事件 再審確定 元看護助手、無罪の公算」が報じられています。これもまた自白偏重の捜査に起因していると朝日新聞も東京新聞も報じています。

東京新聞2019年3月19日 夕刊
 滋賀県東近江市の湖東記念病院で二〇〇三年、入院患者の人工呼吸器のチューブを外して殺害したとして、殺人罪で服役した元看護助手西山美香さん(39)=同県彦根市=が申し立てた第二次再審請求審で、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は検察側の特別抗告を棄却し、裁判のやり直しを認める決定をした。十八日付。再審開始が確定した。大津地裁でやり直される再審公判で、西山さんは無罪になる公算が大きい。 (蜘手美鶴)

 僕は警察と検察に大きな声で「もう、いいかげんにしろ!!」と叫びたい。

◆キーワード
 <松橋事件> 1985年1月、熊本県松橋町(現・宇城市)の町営住宅で、住人男性(当時59)が遺体で見つかり、知人の宮田浩喜さん(85)が「自白した」として殺人容疑で逮捕された。一審・熊本地裁での公判中に否認に転じたが、90年に最高裁で懲役13年の刑が確定した。

 弁護団は97年、検察が開示した証拠の中から、宮田さんが「犯行時に凶器に巻き付けて使った後で燃やした」と供述していたシャツの左袖を発見。2012年に再審請求した。熊本地裁は16年、再審開始を決定。18年10月に再審開始が確定した。

色分けの「人種」2019/03/29 18:21

 <少し長文です>

朝日新聞朝刊 2019年3月28日
「人種」の概念、科学で使わないで 
悪用・誤解による差別助長を懸念

 白人、黒人、黄色人種――。何げなく使っている人種という概念を、科学論文で使わないように遺伝学者が呼びかけている。定義があいまいで、科学的根拠も乏しく、差別や人に優劣をつける風潮を助長しかねないという。

 ■「遺伝学では分けられない」 米学会

 上半身裸の男たちが、次々に牛乳を一気飲みし、雄たけびをあげる。2017年2月、ニューヨークで撮影された白人至上主義者の集まりだ。牛乳は白人の優位を訴えるシンボルになっている。

 ニューヨーク・タイムズ紙によると、白人の多くは成人しても体内で乳糖を分解する酵素ラクターゼが作られ、牛乳を飲んでもおなかを壊さない。アジア系やアフリカ系では、この酵素を十分持たない人の割合が多く、極右のネット掲示板などで、「牛乳を飲めないなら(米国から)立ち去れ」といった投稿につながっている。

 人種の違いに端を発した憎悪犯罪も後を絶たない。今月15日にニュージーランドのイスラム教礼拝所(モスク)で起きた乱射事件では、容疑者が「白人の危機」を訴える声明をネット上に投稿していた。

 差別を助長しかねないとして、著名な科学者の発言が問題にもなった。

 DNAの二重らせん構造を発見し、ノーベル賞を受けたジェームズ・ワトソン博士は、今年1月のテレビ番組で「知能と人種は関係している」などと発言。ワトソン氏がかつて所長を務めたコールドスプリングハーバー研究所(ニューヨーク州)は「偏見を正当化するための科学の誤用を非難する」との声明を出し、名誉職を剥奪(はくだつ)した。

 差別や誤解に対し、米人類遺伝学会(ASHG)は昨年10月、「人種差別のイデオロギーに遺伝学を使うことを非難する」と異例の声明を発表。「遺伝学では人類を生物的に分けることはできない」「『種の純血』などという概念は、科学的に全く無意味だ」などと批判している。

 ■個人のDNAの多様性 肌の色や骨格

 そもそも「人種」は18世紀に広まった考え方で、肌の色や骨格などの特徴から人類を3~6種類に分類できるという前提に基づく。だが、DNAが発見され、全遺伝情報(ゲノム)が解読されるようになった現代では、単純でないことが分かっている。

 「人種は欧州の科学者が植民地支配や奴隷制を支えるために政治的意図を持って発明した概念だ」。2月にワシントンで開かれた米科学振興協会(AAAS)の年次総会。人種と遺伝学についての討論会でカトリーナ・アームストロング・ハーバード大教授はこう指摘した。主催したドレクセル大のマイケル・ユデル准教授は危機感を強める。「科学者にとっても政治家にとっても、一般の人にとっても重要な問題だ。人種という単一の見方では人の多様性は解き明かせない」

 一人ひとりのDNAの塩基配列は99・9%は同じ。遺伝的な違いは緩やかで、集団ごとにきっちりと境界を作ることはできない。人種を決定するような遺伝子はなく、同じ人種とされた中でも遺伝子レベルでみると多様性がある。

 ペンシルベニア大のサラ・ティシュコフ教授は「遺伝的多様性は、10万年以上かけて人類が環境に適応するために進化した結果。人種とは関係ない」と話す。例えば、ラクターゼができる体質は、欧州特有のものではなく、中東や北アフリカで酪農が始まってから人類全体に広まった。白人であっても、一定の割合で持たない人がいる。

 ティシュコフ氏らは、誤解や悪用を許さないよう「人種」という言葉を科学論文からなくそうと訴える。人の集団を表すときには「系統」や「人口集団」などと言い換え、地理的祖先や文化、言語など何に基づく分類か明記するよう提唱。同時に、社会学や政治学の分野で人種という概念を使って差別や格差を調べる研究は重要だとしている。

 米科学界のこうした動きについて、武藤香織・東京大教授(研究倫理)は「遺伝学がホロコーストなどの優生思想に手を貸した負の歴史が影響している」とみる。日本でも、厚生労働省が16年にゲノム医療の報告書をまとめた際、武藤さんらの働きかけで、ゲノム情報が差別につながらないよう留意する記述が盛り込まれたという。(ワシントン=香取啓介)
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