札幌雪まつり2014/02/05 18:46

今日から札幌雪まつりが始まりました。四時過ぎに拙宅を出て大通り九丁目に向かいました。足元は凍結した圧雪で滑ること滑ること、スパイク付きの靴を履いてきたのが正解でした。
TVタワーまで歩いて見ました。時間にして50分ほどでした。いつもの倍近くの時間がかかりました。例年約二百万人の人出と報道されますが、今年も目標達成が成るかもしれません。
あまりの寒さで200円のオニオンスープを屋台で買いました。少しは暖まるかと思いましたが、熱々であったはずのスープは、大げさではなく、瞬時にぬるくなってしまいました。

写真はガラスのケースに納まって、外気温に似つかわしくない軽装で電子オルガンを弾く女性です。

神様の威厳2014/02/22 17:33

僕はここ数日、今までにない長い時間を母と過ごしています。
口から食べる、飲むはなく、合わせて点滴なども一切ない状態になってすでに一週間以上経過しました。にも関わらず、母の血圧や脈拍にさして変化はありません。
僕は、言葉を発することは困難になっている母に創造主なる神様の威厳を毎日強く感じています。

生きること2014/02/23 15:26

今さらとは思いながら、母のベッド脇に数時間座っていて「人はなぜ生きるのか」と自分に問いたくなっています。
学生のころは頻繁に友人らとこのテーマについて議論をしたことを思い出します。
自分が68歳を過ぎて、目前には尊厳死を待つ母がいる状況でのこの質問は、当然ながら18~9のときのそれとは異質なものです。当時の議論が青臭かったと一蹴する気はありませんし、今の自分の内面で起こっている対話が上等だとも思いません。
大きな違いは、自分もベッドに横たわっている母のような状況に、遅かれ早かれ置かれることを意識していることです。

誰しも願うように、母は若い頃から「ポックリ死にたい」と言っていました。僕自身のことについてもそう願うのですが、こればかりは自分の意思よりも神様の御心が優先ですから自由が効きません。
できることなら母も、自分の番が来た時にも痛みに苦しむことなく逝きたいものだと切実に願うばかりです。

スーパー介護福祉士2014/02/26 00:00

 僕の母はグループホームにお世話になっています。ここで働く介護福祉士、いわゆる介護士さんたちは、僕に言わせるなら「スーパー介護士」の面々です。

 グループホームは認知症で介護を必要とする人にとって理想的な施設だと思います。そして、そこで働く人々は、多くの場合、家族が家庭で十分介護しきれない要介護者のお世話をしてくれるのです。

 先日、母は3度目の肺炎を患って入院をしました。肺炎の治療が終わった後、医師は数日、長くて一週間の命と宣告しました。その説明を聞いた「なるたきグループホーム」の施設長SさんとケアマネージャーHさんは担当の医師に「じゃ、うちで引き取って看取りをします」と宣言をしました。医師はしぶしぶ承諾をしました。

 病院では治療と看護を期待できますが介護は難しいのです。母が7年近くも生活の場としたグループホームが最後の看取りにかかわってくれることに僕たち家族はただ感謝の気持ちでいっぱいでした。

 SさんやHさんの介護への熱意は同時に的確な判断を生み、病院では考えられない入浴までも実行してくれました。
 母はベッドに横たわっているだけですが、2週間前に病院に入院していたときよりもはるかに快適で幸せのように見えます。

自然死2014/02/26 23:50

 僕は毎日グループホームに出向き母の様子を見ています。母が認識をしているかどうか定かでありませんが、「忠です。おはようございます」と耳元で声をかけます。しかし、反応はゼロです。その後は前日の様子と何か違いがあるか注意深くみます。母の場合は延命治療を施さないことになっていますから自然に枯れるのを待つのみです。

 母には病名はありません。したがって治療も投薬もありません。母の場合、多くの臓器が耐用年数を超えているわけで、点滴で何かを投与しても元の健康を取り戻せるわけではありません。僕は十分に老化し、固くなった血管に無理して点滴用の針を刺すことは母は
望んでいないと思っているのです。よって、点滴で水分の補給も行っていません。無論、本人が水分をほしがれば別ですがその兆候は全くありません。
 言い方が適当かどうかは別にして、放っておいて、様子を見ているだけです。残された時間をできるだけ苦痛なく快適にすごしてもらうための介護があるのみです。

 僕はそんな状況下で、日に6時間くらいは母と一緒にいるという経験をしています。

 写真は、少し春めいた気分にさせる今朝の青森湾。

逝くこと2014/02/28 13:22

 いつかは自分にも命絶えるときが必ず来ます。そして、自分がどんな死に方をするのかを想像しますが自分が望むようにはならないだろうと、このこともまた、同時に想像します。
 母はたびたび「もういい。いいかげんに終わりたい」という意味のことを60歳代のころから話していたように思います。母は真剣な気持ちで言っていたのか、半ば冗談で言っていたのかわかりませんが、いいかげんどころか95歳まで生きてしまったのです。それは明らかに母の当初の意に反しての長生きでありました。
 結果的に母にとって余分な、予定外の,余白十分な人生を送ったのですが、それが良かったのかどうか。こればかりは母に聞くことはできませんでした。

写真は、早朝3時ごろのグループホームのロビー。日中は入居者の歌声や運動の掛け声で賑わっています。
テーブルのファイルは母の生活記録です。見えているのが最後のページです。

こんな時間帯なのに、母にさよならを言うために幾人もの職員が駆けつけてくださいました。
職員の皆さん、長いこと本当にありがとうございました。
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