2013年 謹賀新年 ― 2013/01/01 21:45
アサヒカメラ1968年1月号-1 ― 2013/01/03 17:15
今年もすでに三日目であるということ、そして無為に時間が過ぎていっているような気がしてある種の不安を覚えます。何歳ころからそのようなことを考えるようになったのかなと思い出そうとしていますが定かではありません。しかし、そんなこととは関係なく、6階にある自分の4畳半の仕事部屋からすすき野方面を朝に夕に腕組みをして眺め、雪になったとか雨に変わったとか、天気が良くなってきたななどと思っている間に日々の時間は刻々とみじめに飛散し、消えてゆきます。そしてあっという間に春が来て僕は68歳になるのだろうと思います。
そんな僕にとってこの1968年1月号の雑誌は、つまり45年前であり僕が23歳の時の出版であるということに変わりはありません。
僕は2009年にアサヒペンタックスフォーラム新宿で「下北半島~」の展をやりました。その作品は1964~65年にかけて撮影したので手元のアサヒカメラの3年前ということになります。僕は「下北半島~」の撮影を終えて、しかし、発表する手立てがあるはずもなくそのまま放り出していました。翌年の1966年12月には横浜からフランスのMMラインの「カンボジア号」に乗り込んでフランスのマルセイユへ発ちました。つまり、僕はこの写真誌を45年経った今初めて読んでいます。
写真は今日の中島公園。終日快晴でしたが気温の低さが半端ではありませんでした。散歩をしていてもカメラをカバンから取り出すのが億くうに感じられるほどでした。
アサヒカメラ1968年1月号-2 ― 2013/01/04 10:48
数日後に配達されてきました。早速に福島菊次郎を目次に探し当てて開きました。
ページを繰るたびに古本特有の匂いが僕の顔面に広がります。幸いなことに元の所有者は大変大事に保管をしていたらしくほつれや汚れはありません。この世に出て45年を経た写真誌としての威厳を古書の匂いと共に保ち続けているように僕には思えました。
まず、感じたことは活字が小さいことでした。今のように高齢者に親切ではなくめっぽう細かな活字が用いられているのです。思わず鼻眼鏡を押し上げて良く見えるようにし、一ページ一ページを覗き込むように、少しの緊張感を覚えながらページを繰りました。
写真は僕の靴。この時季には滑り止めを装着することが普通になっています。数年前に頸椎にある病気が見つかって以来です。医師は「転ばないでください。治療法は対症療法しかありません。転んだらまずいですヨ!」と。こんなのを履いて歩いても転ぶ一歩手前くらいまでは滑ります。完璧な滑り止めの靴底を発明したらN賞間違いなしと思っているのですが・・。
アサヒカメラ1968年1月号-3 ― 2013/01/04 22:37
隣のページにはASAHI PENTAX SPの広告です。ペンタックスには限りなく愛着を覚えます。「下北半島~」を撮ったのは新宿で高校生のときに買った中古のS2でした。
外国で、自分が使う目的で持ち込んだカメラを譲渡するのは関税法違反ですが僕は日本から持ち出した500ドルが底をついたときに空腹には耐えられず手放しました。2台のボディーを持っていましたが結局は持ち続けることも、フィルムを買って何かを撮影することもできず、という惨憺たる結果でした。
広告のページを見るだけでも45年超も前の時代にタイムスリップし、「そう言えばあれも欲しかった、これも使ってみたかった」と、今にして何やら落着きを失う自分を覚えたりしています。
トプコンやミランダといった懐かしいカメラの名前と共に幾人もの写真家の名前も「そうそう、この人も」といった具合で突然僕の記憶の中に学生時代のことが蘇ってきます。
写真は広告のページ。
アサヒカメラ1968年1月号-4 ― 2013/01/05 11:16
同じ年に土門拳はざら紙に印刷をした100円写真集「筑豊のこどもたち」(パトリシア書店)を発表しています。九州地方の炭鉱の町の子供たちの様子を記録した、リアリズム写真の先駆け的な写真集です。
後々触れることになると思いますが当時はアマチュア写真家が時の流れの中で写真を職業にするようになることは珍しいことではなかったと思います。氏は本来は時計屋さんで写真は独学のようです。
http://bitters.co.jp/nipponnouso/
その「ピカドン~」の延長線上に3.11原発事故の取材があり、WEBで見る限りでは今もご健在で「最後の執筆」活動をなされているようです。
氏自身のドキュメンタリー映画「ニッポンの嘘 ~報道写真家 福島菊次郎90歳~」を北海道浦河の大黒座という映画館で観たことは先に書きました。
アサヒカメラ1968年1月号-5 ― 2013/01/06 17:45
アサヒカメラ1968年1月号の巻頭に≪回転展望台・25≫「プロ作家とアマチュアの差」と題して時の重鎮報道写真家稲村隆正が文章を書いています。
「また、カメラ、照明機材、感光材料等の写真用品についても、以前は両者の差はたいしたものではなかった。」と書いています。これは広告写真が盛んになりそれ用のスタジオが完備されだした時代だと思います。しかし、スナップ写真(報道写真)の世界においてはプロもアマチュアも基本的には大差はなかったように思います。多くのプロフェッショナルは新聞社や週刊誌、月刊誌などの写真部に籍を置いた社員でしたから、必要に応じて大判のカメラや何本もの交換レンズ、耐久性の高い高価な機材を使っていました。しかし、35mmフィルムのカメラが徐々に万能になる時代でしたから大判カメラは出番が少なくなっていました。
僕が学生時代に文藝春秋の写真部の暗室でアルバイトをしていた時にみたカメラマンの機材に特別に驚くことはありませんでした。違いは、月に一度くらいは定期的にメーカーの技術者が来社して機材のチェックや簡単な修理を行っていたことぐらいでした。僕が当時もっともうらやましく思ったのは機材よりもフィルムの持ち出しに制限がなかったことでした。ロッカーにメーカーや種類別に保管されているフィルムを何本持ち出すかはチェックがないおおらかな時代でした。
写真はアサヒカメラの作品募集広告。「賞金総額100万円」とあります。また、「風俗的なもの、ユーモアを含んだものも結構。」とあります。
アサヒカメラ1968年1月号-6 ― 2013/01/07 21:31

「スタジオ用の高出力ストロボライトが従来のスタジオライトにとってかわろうとしている。これはアマチュアにはほとんど縁がないが、その効果は、300ワットや500ワットのフラッドランプとは比較にならない。」
つまり、稲村も報道写真と同時に写真館の人物撮影を含めてコマーシャル写真も手掛けていたのかもしれません。しかし、徐々にコマーシャル写真はその分野の専門性が確立されつつありましたが68年の時点では稲村はコマーシャル写真とスナップ写真(報道写真)を同義としてとらえていたように思えます。
職業写真家になる志を持って写真専門の学校へ進みスタジオ撮影や大判カメラの技術を習得した人もいました。反面、福島菊次郎のようにあることを表現したいという志が先行し生業を持ちながら写真を続け、その結果、職業写真家になったという人もいます。木村伊兵衛もその範疇であろうかと思います。木村は台湾で砂糖問屋に勤めていたようです。
僕自身は写真専門学校へ進みたいとか写真家になりたいといった願望はなかったように思います。単純に「人の写真を撮るのは楽しい、面白い」と考えていました。
写真はカンボジアの修業僧(2002年)。
当時はまだ写真を再開する考えはみじんもありませんでした。
アサヒカメラ1968年1月号(休み) ― 2013/01/08 22:25
今日の朝日新聞夕刊文芸批評に大変刺激的な記事が2つ掲載されていました。
一つはインタビュー記事です。大見出しが「衰え行く言葉を鍛えよ」。小見出しが「古井由吉インタビュー」。
「~現代は、歴史から切り離された新造語が、特に経済で多いのではないか。例えばイノベーション。新しくするという意味だが、リフォームとかありふれた言葉を使わず、流れから断ち切られた言葉がなぜか突然出てきた。金融工学もイノベーションという概念に推されたはず。言葉はおのずと人の考えを検証する。思ったことを口に出してみたら、とんでもないことだったとか。その抑制力がずいぶんと失せてきた。」
自衛隊が「国防軍」に、脱原発が「卒原発」に。
言葉が重みを失ったなと僕は感じています。
反面、もう一つの記事というか、これは詩です。言葉の力を感じました。
「ねんねんころりよ=新井高子=」
前述の「衰え行く言葉を鍛えよ」の文脈でいえば「~日本人は、改革は苦手だが、弥縫(びほう)つまり取り繕いは得意。姑息に見えるが、なかなかの美徳と効用がある。」ということかと。
僕は電気料金が値上げされようが、それを抑えるために税金が使われようが、原子力発電は止めるべきだと思っています。弥縫(びほう)だろうが遅すぎることはない!と叫びます。
アサヒカメラ1968年1月号-7 ― 2013/01/09 21:59
僕が啓発されたのは名取洋之助の「写真の読みかた(岩波新書、1963年)」です。名取は戦前に18歳でドイツに渡りました。成績が振るわず上級の学校への進学を失敗したのが原因のようです。さまざまな偶然が重なって氏は写真と係るようになりました。1930年代に帰国した際に「組写真」という表現方法を持ち帰りました。そして、後に「岩波写真文庫」の編集に携わります。
僕は子供のころから父の書斎にあったA5くらいの小型本「岩波写真文庫」が大好きで繰り返し眺めていたので「写真の読みかた」に記述されていたことが分かりやすかったのかもしれません。
福島菊次郎が「ピカドン ある原爆被災者の記録」で日本写真評論家賞特別賞を受賞したのが1960年です。「写真の読みかた(岩波新書)」が出版される3年前のことです。しかし、福島が上京後に「写真の読みかた」を読んだであろうことは想像できます。あるいはそれよりもずっとはやい時期に名取のことを知っていたかもしれません。
十数年前に父が逝った時に書庫の整理をしました。その書棚の中には「岩波写真文庫」が何十冊も残っていました。今思えば、処分をしなければ良かったかなという思いが少しあります。
「写真の読みかた」は僕の手元にはありません。何度も引越しをしている間に消えてしまったようです。しかし、古本は入手可能のようです。
写真は「さっぽろ雪まつり」の雪像制作が始まった様子。いつものように、自衛隊さんの協力なくしては成り立たないまつりです。
アサヒカメラ1968年1月号-8 ― 2013/01/10 23:06
今朝、起き掛けに何気なく書棚をみましたら、この本の背表紙が僕の目に飛び込んできました。「ここにいるよ。忘れないで!」と叫んでいる風でした。
ここ2週間くらいのあいだに2回目の物忘れ事件です。先週は、4月の旅行のためにWEBでホテルを予約しました。そのことを完全に失念し、数日後に、早めにやっておこうと思い立って同じ予約をしてしまいました。翌朝になってそのことに気づき、僕は落ち込みました。
で、今度の本の件です。
最近の朝日新聞朝刊に認知症についての連載記事が載っています。認知症をチェックする項目があり、そのうちの4項目が該当する場合には・・と書かれています。今のところそれを自分で実行する勇気はありません。
もっとも、同じ本を2度買うというのは50歳代のときにもありました。特に、すぐに読まなくても資料として必要だと思い、積読をした本が危ないのです。近頃はそのような本を買わなくなったので症状が緩和されているように見えるだけのような気がします。
「私がこの本でお話ししたいのは、写真の写しかたでも、写真の化学的な説明でもありません。~毎日かならずふれている写真―をみる人のための、写真の話しをしようと思います。」と名取洋之助は「はじめに 1958年 」と書いています。後付けをみると岩波新書の1版は1963年となっています。僕のは無論、学生時代に買ったのではなく2006年29版です。僕が写真の再開を決心したころに、改めて買ったと思われます。
ページを繰った跡がありませんから積読になっていたのだろうと思います。
うっかり、3冊目を買うところでした。
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