僕の45年間-1262011/06/01 22:49

 僕は働きたい理由を正直に話しました。
その頃は英語に随分と慣れていましたから、ヨシさんは工業高校の出身であることや自分もこういう仕事に大変興味があること、また、器用な方なので、機械をいじるのは得意であることなどを臆せず言ってしまいました。
工場の主は黙って僕の話を聞いてくれました。語学を勉強している僕は週に15時間以上は働いてはいけないことなどを知る由もありませんでしたがその事について僕は触れませんでした。

 最後に、僕は1週間雇ってくれるようにお願いをしました。それで機械の操作が出来ないようであれば諦めると話しました。工場の主はあっさりとOKと言って明日からでも来るように言いました。

 僕らはお礼を言って工場を後にしました。大きな敷地を横切っているときにまた、さっきの大きな犬が追いかけてくるのではないかと後ろを振り返りながらヒヤヒヤしました。
 仕事が決まってやれやれと思ったものの、僕は毎日ジャーマンシェパードのお迎えを受けるのかと思うと気が重くなりました。

 翌日は8時前に工場に到着しました。工場の主はすでに出勤していました。僕らは茶色の作業着を与えられました。作業着は日本の白衣と同じ形をしたものですが生地は厚く丈夫そうでした。

 初めに与えられた仕事は金属のバケツ一杯に入っているネジのバリ({Burr}旋盤から出て来たばかりのネジには余分なバリと言われる鉄の削りクズがついています。縮れ毛のような形態で簡単に手を切って怪我をすることがありますし、無論そのままでは商品にならないのです)を一本一本ヤスリで削ってキレイにすることでした。やはり金属のバケツをひっくりかえして椅子にしてヨシさんと向かい合ってヤスリで削る作業をしました。

 作業員たち皆は旋盤のスイッチを入れて金属を削りはじめました。油の匂いと旋盤のモーターがゴーと回る音、金属が削られるキーンという高い音が工場の中で反響しはじめました。


写真はリヨン駅構内のレストラン 2005.12

「楽園への歩み」ユージン・スミス2011/06/01 23:20

 朝日新聞はときどき写真好きな人間を喜ばせてくれます。今日の夕刊に表題の写真の紹介をしています。
http://thinkinpictures.visualsociety.com/2007/08/03/the-walk-to-paradise-garden/

ユージン・スミスは水俣病のドキュメンタリーを撮った写真家です。
http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/EugeneSmith.html

「楽園への歩みthe walk to paradise garden」は自分の子ども達を撮った1946年の作品です。しかし、家族写真の域をはるかに超えて、今でも鑑賞に耐える素晴らしい作品だと思います。

2009年5月17日の僕のブログでふれているザ・ファミリー・オブ・マンThe Family of Man という写真集に掲載されました。
http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/05/17/

4万ヒットを超えました。2011/06/01 23:25

 南川泰三氏のブログに触発されて書き始めたのが2009年3月20 日です。月数を数えてみると約34ヶ月続いたことになります。怠惰な日々もたくさんありました。メールで督促を頂いたことも何回かありました。しかし、おかげさまで4万ヒットを達成?することが出来ました。辛抱強い読者の皆様、本当にありがとうございます。

 これからもダラダラと書き続けるであろうと思います。せっかくこのサイトを開いてくださっても「何だ、更新していないじゃないか」とがっかりさせることも、間違いなくあります。その節はどうぞ「しょうがないな。またサボっているな。」とつぶやくかコメント欄に励ましの一言を書き込んでください。
 特に理由が無くても、なかなかキーボードをたたけない日もあります。そんな日でもコメント欄への書き込みが無いかな、と期待をしながら、自分のブログを開いてはみているのです。
僕が書いていることと全く関係が無くても大歓迎です。近況をお知らせくださるだけで嬉しいです。是非、コメントを書いてください。

 今のところ「僕の45年間」はなんとか続けたいと思っています。本当に45年分を書けるかどうかは怪しいのですが・・・。今はただただタイトルを間違ったと後悔をしています。

 ということで「4万ヒット」の挨拶とさせていただきます。今後もどうぞよろしくお願いします。

僕の45年間-1272011/06/02 22:23

 単純な作業ではありましたが初日ということもあって緊張をしながら、おしゃべりをすることもなく黙々とヤスリをかけ10時になりました。
 日本の職人さんたちと同じに10時はお茶の時間でした。
 
 一斉に旋盤などの電源が切られて一瞬のうちに静寂を取り戻しました。
工員の皆は息を殺して鉄の材料を削る刃先を凝視し、微妙な手加減でハンドルを操作していました。その緊張から開放されて、フー!という深呼吸の音が聞こえてくる感じがしました。

 工場の片隅には電気の湯沸かし器と特大サイズのインスタントコーヒーのビンがあり、各自勝手に飲んでいました。その机の上にはいくつものマグカップが置かれていました。どれもこれも洗ったのはいつ分からないくらいのい使い込んでいました。それでもどのカップが誰のかは分かっているようでした。
 僕らのカップはありませんでしたので工場の主がどこからか調達をしてくれました。

 僕らは英語を勉強している日本人学生であることやホンダが当時、ヨーロッパで発表した小型のスポーツカーのことを話し、15分はあっという間でした。

 僕らはまた、バケツの椅子に腰をかけてひたすらヤスリを動かし続けました。
 僕はヨシさんに「旋盤の動かし方が、本当にわかるの?」と聞いてみました。彼は「多分」とだけ答えました。
 そうこうしている内に昼どきになりました。僕らの昼食は、工場に来る前にパン屋で買ったバン(まるいコッペパンのようなの)にチーズをはさんだサンドイッチひとつとコーヒーでした。天気が良かったので日の当たる場所を陣取ってゆっくり食べました。その間に主は僕らの仕上げたネジをチェックしていました。


 写真はブラッセルの街で見かけたイルミネーション 2005.12

僕の45年間-1282011/06/03 19:27

 昼食の後、工場の主は僕達がヤスリで削った後のネジの半分はやり直しという指示をしました。ヤスリのかけ方の手本をもう一度見せてくれました。彼は怒ったり声を荒げたりすることなく丁寧に教えてくれました。
 3時の休憩時間まで何度か来て、僕達の手元を見て教えた通りできているか確認をしてくれました。ヨシさんは「分かってきたゾ」と言いながらだんだん仕事が早くなりました。僕はヨシさんに負けまいと頑張りました。しかし、ヨシさんの仕上がってゆくネジの山は僕のよりもずっと大きく追いつけませんでした。

 5時まで一日いっぱいバケツの椅子に座っていましたから立ち上がったときには腰が痛くなりました。

 その仕事を2日間やりました。ようやくバケツ一杯のネジのバリ取りを終えました。

 3日目にはいよいよ旋盤の仕事です。他の工員さんの手元を見ているだけで簡単に覚えられる仕事ではないと思えてきました。ハッタリで「出来ます」といったことを少なからず後悔しました。

 ネジのバリ取りの仕事から主はヨシさんの方が覚えるのが早いだろうと思ったらしく、最初にヨシさんを空いている旋盤に招いて指導をはじめました。僕にはそばで見ているように言いながら電源を入れました。ゴーツという音を出しながらモーターが動き出しました。僕は身震いをおぼえました。

 初めにネジの材料となる鉄の棒のセットです。棒の中心をしっかり確保して固定します。回転をさせたときに中心がずれないようにしなければなりません。これは意外と難しいことでした。次はそれを削る刃のセットです。その角度がまた、大変に微妙でした。僕には、実際に削り始めるまでの準備を覚えるのが大変でした。

写真はリヨン駅前。珍しく雪模様でした。2005.12

僕の45年間-1292011/06/04 21:12

 主は、僕にもやってみろと言いました。難儀でした。2度3度と試みましたが上手にできませんでした。ヨシさんは何とかひとりでセッティングが出来るようになりました。そこで、こんどはヨシさんが僕の先生になりました。やはり工業高校で触ったことがあるいう「実績」はその実力を発揮していました。

 ヨシさんは大工になるための木工科でしたが金属加工も好きだったので昼休みには機械科で遊んでいたそうです。

 その日一日は、削る作業を覚えるまでは至りませんでした。僕はこの調子だと雇ってはくれないだろうなと思いながら、ヨシさんに言いました。「もし、ヨシさんにだけを雇うと言ったら、僕に遠慮するなよ」と。ヨシさんは「大丈夫だ、明日になったら出来るようになるって」と楽観的でした。
 ありがたいことに、それでも工場の主は僕達を放り出すことなく「明日も来い」と言ってくれました。

 その日の夜は自分が旋盤を上手に動かしている夢を見ました。気持ちの上では何とかこの工場の仕事を憶えたいと思っていました。何しろ給料はレストランの倍以上でしたから。

 翌日、いつもより早く出勤しました。旋盤の前に立って、昨日教わった手順を頭の中で復習をして「今日こそはネジ一本くらいは仕上げて見せるぞ」と決心をしました。

 工場の主が出勤してきました。直ぐに作業衣を羽織って事務所から出てきました。僕に昨日の手順通りにやってみろというのです。
 まず、と僕は思いながら電源のスイッチを入れました。それまではシーンと静まり返っていた工場にゴーッというモーターの唸り音がこだましました。

 写真は深夜のベルシー・ビレッジ。元々はワインの貯蔵と物流の中継地だったようです。当時の倉庫がレストランやカフェ、ワインバー、ショップに変身したのだそうです。鉄道の線路が当時のまま残されています。

僕の45年間-1302011/06/05 20:54

 主は「そうだ、そう、そう」と僕の手元を見ながら僕を安心させてくれました。昨日教わったところまでは一通りできました。主は「Take a break ひと休みして」と言って合格点を出してくれました。
僕はガチガチに緊張をしていましたからその一声がとてつもなくありがたく思えました。僕は23歳くらいだったと思います。

 そうこうしているいうちに他の工員さんやヨシさんたちが出勤してきました。ヨシさんはいつもニコニコしている人で、その朝も笑顔で「早いね」と言いながら作業衣を羽織って仕事の準備に取りかかりました。
彼は僕と違って材料をセットするのにたいして時間がかからず「今日はネジを作らししてくれるかな」と張り切っていました。

 やがて、主が僕らのところにきてネジを切る刃の説明をしてくれました。これのセットの仕方を説明し実演をしてくれました。
 材料の鉄の棒が高速で回転しているところにゆっくりゆっくりハンドルを右手で回し刃を当てるのです。キーンという音がしました。瞬間、縮れ毛のようなバリが鉄の棒にまとわり付きネジの形ができはじめました。
 主は、刃が切れなくなったり欠けたら報告をするように言いました。
その日の午前中は何十本もネジを切りましたが一本も製品にはなりませんでした。しかし、主は何度も僕らのところにきてコツを伝授してくれました。

 今はわかりませんが当時は、給料は毎週金曜日の夕方にその一週間分が支払われました。いわゆる週給制度でした。銀行員とか公務員は月給制でしたが多くは週給で、家賃も金曜日ごとに払いました。
普通の人々にとってお金の使い方は全て週単位で、割賦払いの場合も月賦ではなく週払いでした。皆、木曜日になると懐がさみしくポケットの小銭を数えていました。
 僕らは何とか工場での一週間を過ごし、給料を手にしました。給料を受け取るときは内心、来週からは来なくてもよいと言われるのではないかとハラハラしました。

 写真はベルシー・ビレッジで宿泊したホテルのバスルーム。トイレットペーパーのホルダーが珍しいと思って撮りました。2005.12

僕の45年間-1312011/06/06 21:55

 金曜日は給料日で、僕がハッタリで「1週間は試しにやらせて欲しい」と言ったその1週間の終わりです。多分、来週からは来なくても良いと言われるであろうと覚悟はしていました。
しかし、主は「See you both next week.二人共、来週またな」と言って給料を手渡してくれました。
僕らは本当に有り難く「Thank you very much」と言って思わず握手をしてしまいました。雇用主と握手は無いだろうと後で思ったのですが・・。

 あっという間の一週間でした。最初の2日間のバリをヤスリで削る以外は、実際に旋盤を回して製品として仕上がったネジの数は他の工員の十分の一くらいしか無かったと思います。それでも採用をしてくれた工場の主には心から感謝しました。

 ヨシさんと帰りの道すがら、僕らのヴィザのことも訊かず、一週間たいした仕事もしていないのに雇ってくれるなんて、普通なら考えられないよね、と話しました。
 特にヨシさんは観光ヴィザで入国していましたから労働は禁止なのです。僕は、その頃は授業を受けることを止めて、帰国の費用をためることに集中していました。でも、形だけはまだ学生ヴィザの残りがありましたから15時間は表向き労働をしても良いので、少しは問題が少なかったのです。

 僕はその週末はくたびれ果てて、カーウオッシュの仕事を休みました。

 翌週からは失敗が少なくなり製品になるネジがバケツに溜まりはじめました。バケツが一杯になるとバリ削りをやりました。

 写真はムーラン・ルージュ(フランス語で「赤い風車」)。あいにくまだショーを観たことはありません。ご興味のある方は日本語サイトがこちらです。
http://www.moulin-rouge-japon.com/about.html

小説「グッバイ艶」増刷決定!!2011/06/07 12:23

 先日もこの本について書きました。その続編です。
 http://tadashi.asablo.jp/blog/2011/05/26/5881391

 5月25日に発売された南川泰三著「グッバイ艶」幻冬舎刊の増刷が決まったということが氏のブログで報告されています。

 本屋に行きますと、ご承知の通り、本の山です。一体、一ヶ月間で何冊の新刊本が出るのでしょうか。あるいは、例えば札幌紀伊国屋には何冊の本が展示されているのでしょうか。

 次から次へと出現する新しい本の目新しいキャッチコピーや壁に貼られ、天井からぶら下がる大きなカラフルなポスター。その海の中で購買者の目に留まり、手に取ってもらい、数ページに目を通して頂き、面白そう、と思っていただき、会計のカウンターまで足を運んでもらうという一連の所作をしてもらえる本は、新刊本の何パーセントでしょうか。
 今回の小説「グッバイ艶」は、まさに、何千人もの本好きな人々にそうした振る舞いを促しているのです。これは、並大抵なことではありません。
僕はこれを特定の本だけが持ち得る「本力」としたいと思います。

|||||||||||||||||(作品のほんの数行ですが)
 僕たちは数日会えない日が続くと、知り合ったばかりの恋人同士のような無邪気で、偽りのない手紙を交わし合った。
『~僕は病院に通じる林の中を一歩一歩、枯れ枝を踏み砕きながら、満ち足りた想いで一杯だった。この道を何度か往復したら、やがて二人で歩いて帰る日がやってくる。艶の体温をすべて抱きしめる日がやってくる。ほら、~』
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

すでにお読みの方は、辛口甘口どちらでも、ご感想を下記のサイトへ。
 ◎南川泰三の隠れ家日記  ブログエッセイ・「猿の手相」
   http://taizonikki.exblog.jp/
 ◎『グッバイ艶』映画化推進委員会 ★公式サイト
   http://www.good-by-en-eigaka.com/

 まだお読みでない方は是非お近くの本屋さんへお越しください。店によったら「入荷待ちです」とか、「お取り寄せです」と云われるかもしれません。しかし、そんなことにはめげないでください。

僕の45年間-1322011/06/07 22:03

 パリへ行くのは2年半ぶり位だったと思います。
 
 カンボジア号でマルセイユに着いて、電車でパリへ向かったのが1968年の1月でした。日本から持って来た500ドルがだんだん減りはじめてアルバイトをしなければと思い、寒空の2月にブラッセル、アムステルダムまでヒッチハイクで行き、仕事探しをしました。しかし、見つからず結局、コペンハーゲンまで行きました。そこで11ヶ月ほどいてイギリスへの旅費と語学学校の当面の費用を貯めました。

 少しずつでしたが英語が分かるようになり、何とかモノになりそうな気がして来た頃でした。
 ある時、僕が住んでいたブライトンから電車であまり遠くないニューヘヴンNewhavenという港からフランス行きのフェリーボートが出ていることを知りました。
 僕は無性にパリへ行きたくなりました。
 1968年にパリを出たときには、もう二度とパリには来れないだろうなと思っていましたから週末が待ちどうしく感じられました。

 画家の村上肥出夫さんはどうしているかな、と思いつつ、翌週末、朝早く出かけました。
(村上さんのことは下記のサイトで少し書きました。)
http://tadashi.asablo.jp/blog/2010/07/26/5248803

 ニューヘヴンからフランスのディエップDieppeという港まで行き、パリのサンラザール駅行きの電車に乗りました。3時間くらい電車に乗ったような気がします。

 後々分かったことですがイギリス海峡に面した方々の港からフランス行きのフェリーボートが出ていることが分かりました。考えてみると当然のことで、歴史的には互いにいがみ合っていた時期はありますが人の往来は頻繁のようでした。

 午後3時頃にはモンマルトルの丘に着きました。久しぶりの油絵の具の匂いやブライトンには無い華やかさに改めて感動し、僕はうきうきした気持ちになりました。
 2度3度と絵描きさんたちの間を歩き回り、知っている人は居ないかと探し、またその雰囲気を楽しみました。

写真はディエップDieppe。2005年12月
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